2010年3月30日火曜日

「勝者の歴史」と言うけれど

 歴史なんて、結局は勝者の都合の良い様に書かれるのだから、当にならないという人がいる。でっち上げる人はいつの時代にもいた。今だってでっち上げをやる人はどこにでもゴロゴロいる。
 だからと言って他の人たちはそれを許している訳ではない。正しい事を伝えようと必死になって闘っている人だっている。

 昔もそうだったのだと思う。勝者、権力者は自身の悪事を隠し、善行をでっち上げ様としたに違いない。しかし一方で真実を残そうと努力した人達がいた事も否定できない。
 つまり、あなたがどちらの側の人間かという事を歴史に問われているのである。どうせでっち上げなんだから、どうでも良いんだといった、黙認型か、それとも真実を歴史に残さなければならないと強く思う方の側かが。

 例えば日本の歴史を見た場合、最も自身に都合の良い様に歴史を変えられた可能性が高いと考えられるのが、250年もの長きに渡り、実権を握ってきた徳川幕府のその基礎を作り上げた徳川家康、彼こそが勝者の歴史をでっち上げるには、最も可能性を持った人物と思われる。

 では彼は日本の歴史の中で最大の偉人として伝え残されているのだろうか。イメージとしてどうかと言えば、「狸ジジイ」とか「辛抱強い」とか少なくともあこがれのイメージはないのである。現代では、織田信長や武田信玄や上杉謙信の方が圧倒的にイメージは良いと言えるのかも知れない。

 辛抱強いというのは、今川義元の下で、人質として育ち、信長の命令で実子を切腹させられ、辛い思いをしたといった印象がイメージに繋がっている様である。
 一方で、桶狭間の時に、信長は義元の居場所をスパイからの情報でつき止めて、そこを奇襲して勝利したのであるが、その情報を誰が流したのかが重要な点である。私は家康に近い所から出た可能性が高いと思っている。

 何故なら彼は義元の陣営に属していたが、信長の方にいたっておかしくはない存在だった。だから最前線で戦わされていたのである。寝返る可能性が一番高かったのだ。
 昔の戦争は刀で切り結ぶ訳だから、最前線の兵士がいかに強くても、重い鎧を着て、重い刀を振り回し続けられる時間は限られている。必ず次から次へと襲いかかって来る敵に最後は疲れて、やられてしまう。だから正面切って戦ったら、数の多い方が必ず勝つ事になる。
 家康は多い方の今川側にいたが、最前線とはそういう場所であった。
 また信長が最後を遂げた本能寺の変の時も、彼は大坂の堺にいて、そこから伊賀越えをして、土地土地の仲間を使って上手く三河まで帰っている。これは彼が光秀が信長を奇襲するのを事前に知っていたのではないかという疑いを多くの人に今でも抱かせている。