2010年3月30日火曜日

今日的な受験勉強の弊害について

 今日の受験勉強を好きでやっている者がどれ位いるのか。本当に好きならば、一生続ける人も出て来るに違いない。でも、大概が入試に受かると止めてしまう。

 では好きでもないのにやっているのだろうか。多分そうなんじゃないかな。これをやれば、良い学校に入れて、次に良い会社に入れて、高収入を得て、生活が安定して良い人生を送る事が出来る。だから辛くても我慢して受験勉強に励みなさい。そうすれば後で幾らでも好きな事が出来ますよ。
 そう親や先生から言われて勉強をしているに過ぎない。

 そんな受験勉強にどんな意味があるのだろうか。良く言われるのが、嫌いな事を我慢してやる事に意義があるとか。辛抱する事を覚える、精神力が身に付くとか、勉強の習慣が付くとかである。

 それは無意味な事をやらせて、無意味な事をやる事に意義があると言っているに過ぎないと思う。その実態はと言うと、薄っぺらな知識をひけらかすようなレベルの人間を作り出すものだから、受験が終わるとともに受験勉強の様な勉強を続けないという事なのか。
 歴史の年号はすぐ忘れる、数学の公式も忘れると言うが、受験以外に必要ないと思うから忘れてしまうのであって、そんな事を忘れまいとする努力何ぞしているおバカが少ないことはまだ良い傾向であるという事も出来る。

 社会に出れば他に覚える事が山ほど出て来るし、理解しなければならない事も多くあるし、教科書をぺラッとめくればすぐ出て来る事柄を忘れないように努力しているおバカは本物のバカと言わねばなるまい。

 要するに何が言いたいのかというと、受験勉強とその先の学問なり仕事なりとがすんなりと結び付いていれば文句はない。しかし、受験勉強と学問は結び付くか、学問的ではないだろう。「何だこれ?」と思う、疑問を抱くと正反対の事、疑問を持つな信じて覚えこめ!とやっている。
 これは完全に学問の芽を摘んでいる事だ。国を滅ぼす類の行為である。だれの陰謀でこういう事が行われているのかは分からないが、人口を減らして自給自足を目指すんだという事ならこれで止むお得ないとは思う。
 でもそれって誰が望んであるのか、知らない。

 学問と産業は結び付く事が多いが、受験勉強は産業の発展に寄与しているだろうか。

 良く、日本人は欧米人の様に考える事は苦手というか、劣るから覚えるだけの学習で良いんだと、言う教師が多いが、彼らは模範解答に書いてある答え以外の質問をされると答えられないから、自分の柔軟性のない頭がばれてしまうので、ばれずに自己満足に酔うために模範解答以外の総てを受け入れたがらないのであるとも言えなくもない。

 立派な教師は、生徒が自分のレベルを追い越そうとする時に、協力をするが、最低教師は、自分を追い越すなんて自尊心が許さないとばかりに否定し、拒否し、脚を引っ張り、最後に潰そうとする。その教師の言う事を聞かなければその上はない。その教師から離れて他の人を見つけるか、さもなくばその道を諦めるしかない。

 こうしてそういう教師がどんどん増えれば、能力ある人間が幾ら才能を伸ばそうとしても悉く潰されてしまうという結果になるのである。

 戦前は「お国のために」という言葉が盛んに使われた。戦後になると、その言葉は、戦争に結び付くという事で、禁句になった感が強い。特に左派の人達はアレルギーを持ち、逆の「個人のため」といったスローガンがまかり通って来た。