2010年3月25日木曜日

前橋文学館で萩原朔太郎に浸る

 最近あちらこちらで本当に詳しく説明してくれるボランティアのガイドさんがいたりするので、楽しみだ。ガイド成りたてなんです、といった人でも、得意な分野を聞いて、そこを中心に話が聞けるとありがたい。
 いつぞやは、ボランティアガイドを志望している中学生に偶然会って、史跡などを解説してもらって回ったが、「両親がいなくて、祖父母の家にいるんです」といった身の上話も交えながら、楽しい時間を過ごした。
 別れ際にお礼をしようと思ったら、「練習させてもらっているから、いいんです」と言って去って行った。こういう子供に将来議員になってもらいたいと心から思う。

 ここ前橋文学館でも、ボランティアのガイドの方がいて、萩原朔太郎の事を詳しく説明して頂いた。
 彼は明治19年(1886)に群馬県前橋市の市街地に開業医の長男として生を受けた。その当時の医院であり、かつ院長の父は群馬県立病院副院長を勤めたこともあって、地元ではかなりの名士であったと思われる。
 朔太郎はそれでもってその家の長男である。彼は医師だったかというと、否である。医学部へ入った事もない。彼は40歳まで地元にいて、仕事にも就かずにブラブラしていた。
 今日であっても、こういう状況に置かれる事がいかに大変なことであるかの想像はつくが、しかも明治期ともなれば、どういう事になったのか。彼が自身の詩集「純情小曲集」の出版に際して記した言葉があるので、その一部を抜粋して見た。

 「郷土!いま遠く郷土を望景すれば、万感胸に迫ってくる。かなしき郷土よ。人人は私に情(つれ)なくして、いつも白い眼でにらんでいた。単に私が無職であり、もしくは変人であるという理由をもって、あわれな詩人を嘲辱(ちょうじょく)し、私の背後(うしろ)から唾をかけた。『あすこに白痴(ばか)が歩いて行く。』そう言って人人が舌を出した。」
 
 これは誇張もあると思われるが、当人が抱いた心境としては総ての人々がそんな目を持って見ていた訳ではないだろうが、回りがそういう目で見ているだろうと思ってしまう事で、そうでない人であってもそうと思い込んでしまう事もあったに違いあるまい。
 しかし彼は無職であっても結婚をしているし、生活に困った訳でもない。親からの資金援助があり、家族との大きな隔絶はなかったと思われるのだ。

 その家に生まれたばかりに、親の仕事を継がなければならない子供の立場は、職業選択の自由がない事で辛いものがあるが、しかもそれが医者となると、向き不向きが割合顕著に表われるし、医学部に入るには難しい試験に受からなければならないという事で、時々重大な事件となって表面化する事もある。
 思い付くだけでも、兄が妹を殺害した事件や家に火を付けて家族を死なせてしまった事件などと悲惨な結果になる場合が目に付く。

 朔太郎の場合には、世間を恨む言葉はあっても親や家族に不満を抱くようなことは余り見えないので、彼の文学仲間や家族が精神の拠り所になったと思われる。