2010年4月10日土曜日

明治まで日本に馬車がなかった訳

 
 絵巻などには都で貴族が牛車に乗ったりしている所が出て来るが、古代、中世、近世を通して日本では馬車が使われなかった。

 福沢諭吉が咸臨丸でアメリカへ渡った時、馬車を初めて見て驚いたという内容の本を見た事があるが、ほとんどの人がそういう発想さえも抱かなかったのだろう。

 江戸時代には大八車というのがあって、荷物を運んだりはしたが、これも宿場の中だけで許可されていて、宿場間を行き来する事は禁じられていたという。
 恐らく武器とかを荷物に紛れ込ませて運ばれたりする危険を避ける目的があったのではないかと思われる。
 関所では「入り鉄砲に出女」を重点的に取り締まり、そして鎖国政策、更にはこうした車の使用制限、あるいは参勤交代などで外様大名などが反乱を起こしたりする財力を削いだり、有りとあらゆる事で規制や制度網を張り巡らせて、江戸を攻撃される事からの芽を摘む方策が行われた。

 その中の一つだったのが、この車の規制による陸上交通の発達の阻害であって、馬車の発展がなかったのも、日本特有の地理的な特性によるものやサスペンションバネの発明がなかったということ以上に、江戸幕府を様々な危険性から守る事を最優先に考える政策の一環によるものが大きかったと言えよう。

 平地では牛を使って重いものを曳いたり運ばせたりはしたようだが、牛が使えない様な山間部では、馬を使って材木を運ばせる事はしていた様である。

 陸上交通で重い荷物を大量に運ぶ事は不可能で、一頭の馬では米俵2俵がやっとである。つまり、馬を曳く人が1人と馬とが必要で、それで2俵なのに対し、高瀬舟の様なので運んだ場合、船頭1人で米俵が100~200俵も運ぶ事が出来たのだという。

 例えば水戸藩が食料などの物資を江戸の水戸屋敷まで運ぶにはどうしたかというと、茨城県水戸市とその北に隣接するひたちなか市との間を流れる那珂川を利用して、河口へと海の方へ向かい、それから涸沼川を遡って涸沼に入る。
 涸沼を舟で端の方まで行き、そこから陸上へ上がり、霞ヶ浦の側にある小川までは旧道を陸送した。小川は河岸として栄え、今でも倉のある旧道沿いの街並みが僅かに残っている。
 小川からは霞ヶ浦に入り、利根川と連絡する所まで行くと、それを遡り、茨城県境町と千葉県関宿町付近で枝分かれしている江戸川へと入り、それを下って江戸へと向かった。