2009年12月25日金曜日

若き日の坂本龍馬が往来してた場所(品川の台場跡)

 


 「カモメ君、もう少し説明板の方に寄ってくれないかな。その方が収まりが良いんだけど」
 「えっ、ダメ?この影のラインとボディーのラインとの一体化を狙っているっていうのかい。へー、そのために体を傾けてポーズ取っているんだから、そこを撮ってくれって事なのか」
 「ハイ、分かったよ」

 といった話をした訳でもないんですが、こんなポーズでパチリと。

 ここは東海道の品川宿に近い立会川の河口で、土佐藩の屋敷があって、海を埋め立てて台場を造り、そこに大砲を据え付けて外敵に備えるといった工事をしていたという。そんな中に若き日の坂本龍馬がいて、この界隈を行き来したという話だ。


 という訳で、旧東海道と龍馬に関連した歴史感想を少し述べてみようかと思う。

 「織田信長の鉄砲隊(長篠の戦い)は有名だが、たぶん鉄砲は大阪堺の商人辺りから仕入れていたのかも知れない。
 宣教師にしても、それから近代武器にも日本の西の方からやって来た。そうした西洋の文化・宗教・武器の事情は、徳川家康もその後の徳川幕府の将軍なども当然良く知っていて、鎖国政策を取る方向へと繋がって行ったと思われる。

 例えば西から武器が入って来て、九州や中国地方の外様大名から攻め込まれ、東国関東の江戸幕府が破れるのではないか、といった恐怖感はかなり持っていた様である。
 江戸の防衛ラインの整備は、西方に対しては相当の力を注ぎ込み、東海道の道筋には名古屋城、岡崎城、浜松城、駿府城、小田原城などの防衛拠点があり、各宿場の出入り口付近では、敵が攻め込んで来た時の進行を妨げるために、道を折り曲げたり、枡を造ったりした。
 また千葉の東金や甲州への逃げ道も造られた。そして、これらの設計に中心となって携わった人物の一族は、機密を守るためもあったのだろうか結果的に根絶やしになっているという。

 幕末になると、開港を求めて欧米列強がやって来るのだが、彼らは直接に日本を攻める事より、外様で幕府に不満を抱いている薩摩と長州とを組ませて、そこへ武器を援助し、それを利用する事によって幕府を倒した方がベターだと悟って行ったと考えられる。そして実際に動いたのは坂本龍馬ではあるが。
 こうした事情から、倒幕ー明治維新へと繋がって行ったのだろう。もちろん薩長連合が、幕府との戦いに勝利し得たのも、近代武器つまり鉄砲・火器のお陰である。

 信長は元来新し物好きで、鉄砲をかなり戦闘に使ったようだが、江戸時代に入ってからの200年間は鎖国の時期が長く、その間侍の武器はほとんどが刀だけだった。そして幕末を迎え、まだ刀は武士の魂だとかいう時代に、中々その武器を鉄砲へとは切り替えられなかった面があるようだ。

 そんな事から、民間から兵士を募集して訓練した方が銃の扱いが上手かったのか分からないが、明治政府は武士を軍人にはせず、一般人を軍人にした。そのために多くの武士が失業したのも事実である。 

 こういう事は何故か教科書には書かれない。その時代によって、戦争や偉人ばかりを取り上げたり、逆に戦争の歴史はいかんと旧石器や縄文や江戸時代の戦争がなかったと言われる時代を教えようとか、色々ある。」