2010年1月25日月曜日

将門の首塚(東京観光の穴場)

 花束がいっぱいの首塚


 皇居に近い大手町のビルに囲まれた中に「将門の首塚」はある。中央政府に反旗を翻した平将門は、藤原秀郷との戦闘で倒れ、その首は京都に運ばれ、三条河原に晒された。

 その首が関東まで飛んで来たというのだが、実際は将門の部下か信奉者が盗み去って、関東まで持ち帰ったのが真相であろう。では何故、大手町に首塚があるのだろうか。
 
 ここからは、全く記録がないので、想像するしかないのだが、可能性が高いのではないかと思われる事を推測してみようと思う。
 葦が生い茂るイメージ


 大手町に近いところに「霞ヶ関」という地名の場所がある。今では官庁街として名高いが、ここには近世以前に関所があったので、それが名前の由来になっていると言われている。また霞の由来は、ここが東京湾の浅瀬が間際まで入り込んでいた所で、流れ込む川や湿地帯もあったりと、霧が掛かったりする事が多かったと思われるので、それに因んだものと考えられる。


 そして何故ここに関所が置かれたかというと、古代道と考えられる旧中原街道や近世の旧東海道、それに延喜式に駅名が記載されている古代の東海道もこの辺りを通過しており、南の方から道がこの地点に収束して来ている点がある。

 更級日記においても、作者が上総国から都へと向かう記述の中で、東京湾沿いの古代の道を行く場面が出て来るが、背丈以上もある葦の生い茂る低湿地の描写があり、当時の道の状況が思い伺えるのだが、その頃は律令時代も終わりに近づき、官道の手入れも思うに任せず、荒れ果てている様子がここから窺い知れる。

 そうしたこれらの状況証拠からして、ここに関所があった事が考えられる。そしてこの関所を通過する時に、将門の首を隠し持っていたのを役人に怪しまれてしまい、逃げ出したものと思われる。しかし持ったままではどうしても逃げ切れなくなって、止むなくその地で、他人に託したと思われる。
 関東では将門の評判は高かったので、託された人も何としても首を守ろうと思ったに違いない。街道沿いに住んでいたその人はそこで託されたものを守り切ろうと心に誓い、子孫や信用できる人物に言い残し、それが代々言い伝わり、今日に至っていると思われるのである。

 江戸時代以前のその頃の海はというと、「日比谷入江」が日比谷公園辺りから東京駅に掛けて入り込んでいたので、古代の道路は霞ヶ関から桜田門の辺りを通って、皇居を抜け、大手町の将門の首塚まで行くルートにほぼ沿う様なものだったと思われる。