2009年10月8日木曜日

首のない五百羅漢像(群馬県藤岡市の七輿山古墳で)







 七輿山古墳は藤岡市北西部にあって、鏑川と鮎川が合流する地点の舌状になった丘陵の先端部分より、一段低くなった所に位置する前方後円墳(145m)である。

 一帯は古墳群になっていて、南の方の白石稲荷山古墳(175m)からは過去に豪族の館を思わせる大きな家型埴輪が出土し、現在は東京国立博物館で展示されている。

 この七輿山古墳の細い道をのぼると、土が削られて平らになった所に五百羅漢像が並べられていて、そのほとんど総ての像で首から上が無くなっている。これまであちこちで、明治初期の廃仏毀釈によると思われる首のない地蔵や石仏を見た事はあったが、それも数体程度で、これ程の数のしかも総てに近い像の首から上の欠けたのは見た事がない。

 かなり徹底している。という事は、それだけ怒りや憎しみが強かったという表われと思えた。

 墳頂に上がるとそこにも大きな石仏等 が数体あって、同じように首から上が取られてしまっている。その大きな本尊の様な石仏と両脇の石仏も一様に東を向いていて、東には寺がある。下の五百羅漢も全部が同様に東の寺の方を向いていた。

 その寺の方では、古墳から掘り出された石棺があった。また境内に古墳の墳丘らしき盛土を削って一面墓石で覆っていた場所もあった。

 更によくよく見てみると、七輿山古墳がどう削られているかと言うと、古い鍵穴の様になった前方後円墳の後円部墳頂の上層部が半円分ごっそりとなくなっている。

 という事は古墳の石室のある場所を目的にして削られている事は明白であると言えよう。言ってみれば墓荒らしだ。どう考えても、現在の発掘の様に中の副葬品が朽ち果ててしまい、歴史的価値がなくなる前に保存をしようというのとは異なる。

 これだけ大掛かりに土を削り取って、五百羅漢像を置くとなれば、これらの像が作られた江戸時代に寺が行った事はほぼ間違いないだろう。そしてこれに怒った者が像の総ての首を欠いたと思われる。