鎌倉は源頼朝が幕府を開いた事で有名です。「いいくに(1192年)作った鎌倉幕府」で学生の頃に覚えた方も多いと思いますが、最近ではこの年号にちょっと疑問符が付いているようです。
しかし我々一般人には、大体この頃という程度の目安でいいんじゃないでしょうか。頼朝が幕府をこの地に置く以前にも、祖先の源氏はここにいた事がありまして、現在の鶴岡八幡宮は、JR横須賀線の鎌倉駅と逗子駅間の線路側に元八幡という神社がありますが、そこから移ったという事です。
また中世より前の古代にも、市街地の市役所に隣接した御成小学校の地に古代鎌倉郡の役所跡が見付かっていたり、古代の東海道もここを通って、葉山から横須賀の方へと行っていたので、その頃から重要な場所ではあったという事です。
ここの地形の特色は、南は海で、北東西の回りを山でぐるりと取り囲まれています。その点で、山があたかも城を囲む外壁のような役割を果たしているのです。 そしてこの内と外とを結ぶ道は、山の尾根を切り通して造られ、鎌倉七口といわれる7ヶ所の主要な切通しがあります。
こうして見てみると一見堅牢な要塞のように思われますが、鎌倉幕府が最後を迎える新田義貞等の鎌倉攻めに顕著に見られるように、一端攻め込まれると弱い側面もあるのです。
それは、「いざ鎌倉」という有名な言葉にもあるように、鎌倉に何らかの一大事があると、周辺の御家人がいち早く駆け付けられるように、それはあたかもローマ帝国の「すべての道はローマへと通ずる」のごとくに、道が鎌倉から放射状に延びていたために、その事が逆に攻め込まれた場合に極めて不利に働いてしまったのでした。
その例が最も端的に表われているのが、鎌倉の北西境に、ちょうど鎌倉市、横浜市、藤沢市の各境が接している場所があります。ここは近世の鎌倉と甲州を結ぶ甲州道が通っていた所なのですが、その道と交差するように旧東海道が通っていて、さらには新田義貞が来た鎌倉街道上ツ道が北から甲州道に合流するのです。
地理的特性や歴史背景はこれ位にして、コース案内をしていきましょう。
JR横須賀線の北鎌倉駅で下車すると、円覚寺がすぐの所にある。
山門
庭