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2016年9月24日土曜日

奥の細道で松尾芭蕉が歩いた道の石に長い歴史の重み(東北番外編)

 日本海沿岸を秋田方面へ北上しました。

 日本海です。




 山が海の傍まで張り出してきています。




 そうした地形から昔は陸上交通は難所が多かったようです。山形県と秋田県の県境辺りに公園があって、奥の細道で松尾芭蕉が通った昔の道が残っていました。








 近代になってトンネルや鉄道が通るまでは、岩や石の多い山道を主要道路としてたくさんの人が行き来していたのでしょう。





 



 こういう擦り減った石は堪りませんね。当時ですから草鞋(わらじ)です。どれだけの草鞋で踏まれるとこう擦り減って来るのか分かりませんが、数百年踏まれ続けてこうなったのでしょう。







 石を良く見ると文字が掘られていました。「足」のようです。


 これは人偏の右側の部分がちょっと分かりません。


2010年4月13日火曜日

廃墟の美しさ(軍艦島から思うこと)


 廃墟ブームだという。長崎県の軍艦島(端島)は、最近良くテレビ等で取り上げられて広く知られるようになり、島へ上陸できるような観光客のための施設も造られたりして、この1年で訪れた観光客は7万人に上るという。
 地元への経済波及効果は14~15億円にもなるとの計算もある。

  この島は南北が約480メートル、東西は約160メートルの小さな島で、海底石炭の採掘のため、石炭産業が盛んな頃の1960年には5262人が住んでいたという。

 それだけの人が住む訳だから、高層のアパートがびっしりと建ち並び、そこには小中学校や様々な商店の他、病院や映画館、寺院やパチンコ店もあったという。しかし炭鉱は1974年に閉山となり、2000人いた島の人々もそこを去った。
 この他にも最近では、炭鉱、精錬所、鉄道、水力発電所などの使われなくなった跡が若い人を中心に観光ブームになっているという。

 僕も以前に信州のリゾートホテルで夏場に働いていた時、休憩時間になると近くの廃墟になったホテルをしばしば見に行った事があった。
 その場所に立つと、「夏草や つわものどもが 夢のあと」という気持ちになれたのだった。割れたガラス窓、壊れたものが散乱したロビー、雨水が浸み込んだりして染みになったり、色褪せて破れたジュータン。

 恐らくかつては多くの宿泊客で賑わっていただろうそのロビー、忙しく客の応対に追われていただろうホテル従業員達が、まるで陽炎のように思い描かれて、何とも言えない気分になるのであった。生き生きと働いていた人々と楽しくバカンスを過ごしていた人々が目に浮かぶと同時に、現実の廃墟が対比的に映し出された。

 歴史の中の栄枯盛衰、奢れる平家久しからずや、万物流転、行く川の流れ絶えずして、行き交う人もまた旅人なり、詰まりそういうもの、大きく言えば歴史、歴史は常に流れている、といったものを感じるのである。

 それも一つの歴史教育の一環であると思う。何もボロボロになった建物や芸術品や他の文化財を綺麗に修復して最初に作られた姿を復元する様にしたものが、歴史文化遺産とばかりは言えない。
 歴史遺産はそれを見て歴史を感じられなければならない。真新しく修復して、昨日作った物の様にしても、何んの感動も感情さへも湧かない事もある。

 店でも会社でも上手く行っている時には、その理由が何かは良く分かったりし難い事が多い。逆に上手く行かなくなって、倒産する様な事を経験すると、色んな事が見えて来たりして、多くを学ぶ事が出来る。だから借金は残るかも知れないが実力を付けるには良いチャンスだとも思える。
 そういう僕自身も失敗から多くを学んで来た様に思う。だから恐らく世間の失敗を経験しない成功者よりも、その実力は数段上と勝手に自負している。それを他人が「バカが何を言うか」と負け惜しみとか負け犬の遠吠えとか見るのだが、それでもその中の誰かが認めてくれなければ、僕はこのまま歴史上から消えてしまい、自分の本にしろ、このブログにしろ自分の望む後世の誰かさんに伝えられる事が出来ないことになる。

 もしかしてバラバラになって廃墟の様になって残る事もあるかも知れない。そんな廃墟の様になった姿を見る事があったら、元の姿をちょっとでも想像してもらえるとありがたいな。
 


2010年4月10日土曜日

明治まで日本に馬車がなかった訳

 
 絵巻などには都で貴族が牛車に乗ったりしている所が出て来るが、古代、中世、近世を通して日本では馬車が使われなかった。

 福沢諭吉が咸臨丸でアメリカへ渡った時、馬車を初めて見て驚いたという内容の本を見た事があるが、ほとんどの人がそういう発想さえも抱かなかったのだろう。

 江戸時代には大八車というのがあって、荷物を運んだりはしたが、これも宿場の中だけで許可されていて、宿場間を行き来する事は禁じられていたという。
 恐らく武器とかを荷物に紛れ込ませて運ばれたりする危険を避ける目的があったのではないかと思われる。
 関所では「入り鉄砲に出女」を重点的に取り締まり、そして鎖国政策、更にはこうした車の使用制限、あるいは参勤交代などで外様大名などが反乱を起こしたりする財力を削いだり、有りとあらゆる事で規制や制度網を張り巡らせて、江戸を攻撃される事からの芽を摘む方策が行われた。

 その中の一つだったのが、この車の規制による陸上交通の発達の阻害であって、馬車の発展がなかったのも、日本特有の地理的な特性によるものやサスペンションバネの発明がなかったということ以上に、江戸幕府を様々な危険性から守る事を最優先に考える政策の一環によるものが大きかったと言えよう。

 平地では牛を使って重いものを曳いたり運ばせたりはしたようだが、牛が使えない様な山間部では、馬を使って材木を運ばせる事はしていた様である。

 陸上交通で重い荷物を大量に運ぶ事は不可能で、一頭の馬では米俵2俵がやっとである。つまり、馬を曳く人が1人と馬とが必要で、それで2俵なのに対し、高瀬舟の様なので運んだ場合、船頭1人で米俵が100~200俵も運ぶ事が出来たのだという。

 例えば水戸藩が食料などの物資を江戸の水戸屋敷まで運ぶにはどうしたかというと、茨城県水戸市とその北に隣接するひたちなか市との間を流れる那珂川を利用して、河口へと海の方へ向かい、それから涸沼川を遡って涸沼に入る。
 涸沼を舟で端の方まで行き、そこから陸上へ上がり、霞ヶ浦の側にある小川までは旧道を陸送した。小川は河岸として栄え、今でも倉のある旧道沿いの街並みが僅かに残っている。
 小川からは霞ヶ浦に入り、利根川と連絡する所まで行くと、それを遡り、茨城県境町と千葉県関宿町付近で枝分かれしている江戸川へと入り、それを下って江戸へと向かった。
 

2010年3月30日火曜日

「勝者の歴史」と言うけれど

 歴史なんて、結局は勝者の都合の良い様に書かれるのだから、当にならないという人がいる。でっち上げる人はいつの時代にもいた。今だってでっち上げをやる人はどこにでもゴロゴロいる。
 だからと言って他の人たちはそれを許している訳ではない。正しい事を伝えようと必死になって闘っている人だっている。

 昔もそうだったのだと思う。勝者、権力者は自身の悪事を隠し、善行をでっち上げ様としたに違いない。しかし一方で真実を残そうと努力した人達がいた事も否定できない。
 つまり、あなたがどちらの側の人間かという事を歴史に問われているのである。どうせでっち上げなんだから、どうでも良いんだといった、黙認型か、それとも真実を歴史に残さなければならないと強く思う方の側かが。

 例えば日本の歴史を見た場合、最も自身に都合の良い様に歴史を変えられた可能性が高いと考えられるのが、250年もの長きに渡り、実権を握ってきた徳川幕府のその基礎を作り上げた徳川家康、彼こそが勝者の歴史をでっち上げるには、最も可能性を持った人物と思われる。

 では彼は日本の歴史の中で最大の偉人として伝え残されているのだろうか。イメージとしてどうかと言えば、「狸ジジイ」とか「辛抱強い」とか少なくともあこがれのイメージはないのである。現代では、織田信長や武田信玄や上杉謙信の方が圧倒的にイメージは良いと言えるのかも知れない。

 辛抱強いというのは、今川義元の下で、人質として育ち、信長の命令で実子を切腹させられ、辛い思いをしたといった印象がイメージに繋がっている様である。
 一方で、桶狭間の時に、信長は義元の居場所をスパイからの情報でつき止めて、そこを奇襲して勝利したのであるが、その情報を誰が流したのかが重要な点である。私は家康に近い所から出た可能性が高いと思っている。

 何故なら彼は義元の陣営に属していたが、信長の方にいたっておかしくはない存在だった。だから最前線で戦わされていたのである。寝返る可能性が一番高かったのだ。
 昔の戦争は刀で切り結ぶ訳だから、最前線の兵士がいかに強くても、重い鎧を着て、重い刀を振り回し続けられる時間は限られている。必ず次から次へと襲いかかって来る敵に最後は疲れて、やられてしまう。だから正面切って戦ったら、数の多い方が必ず勝つ事になる。
 家康は多い方の今川側にいたが、最前線とはそういう場所であった。
 また信長が最後を遂げた本能寺の変の時も、彼は大坂の堺にいて、そこから伊賀越えをして、土地土地の仲間を使って上手く三河まで帰っている。これは彼が光秀が信長を奇襲するのを事前に知っていたのではないかという疑いを多くの人に今でも抱かせている。
 

2010年3月20日土曜日

日本の道の歴史

 江戸時代の旧街道などを歩くと、至る所でくねくねと不必要に曲がっているのに気が付く。よくよく注意して観察しても、何故ここでカーブしているのか分からないというのが多い。

 これまで、人々は江戸時代以前の中世はさらに曲がっていて、それより以前の古代であれば、多くが「けもの道」程度の道だと考えていた。ところが、この十何年かの間に、古代の道は広くて、しかも直線的な道が全国規模で種類分けして複数のルートを造ったり、主要道路の補助的な機能を持たせる道を造ったりと極めて計画的に整備されたという実態が分かって来た。

 そして今日では、道の歴史的変遷はこれまで考えられていたように、少しづつ広げられて、曲がったところを真っ直ぐに修正されて来たのではないという事が歴史地理学や考古学の調査によって証明された。

 以前から良く私は旧街道を歩いた。その度に気になったのが、道が不自然にクネクネしている事だった。その事実を事あるごとにどんな人に尋ねても、地形に影響されて曲がっているという答えしか返って来なかった。
 誰もが、もっと昔の中世や古代には、江戸時代よりもっと道幅は狭くて、さらにクネクネしていたとそう思っていた。

 所が、古代の官道が全国あちらこちらで発見されるようになって来ると、どこでも定規で計ったように直線的で圧倒的に道幅の広い道路である事が分かった。

 私が調べて見た所では、江戸時代の街道の道幅は、当時のまま残っていそうな場所を探した所、4間(約7.2m)の所が多かった。
 鎌倉時代の街道はというと、山林の中にそのまま残されているような場所があったり、発掘調査で見付かったりする場合があったりと、極めてその例は少ないのであるが、栃木県の小山市や東京都府中市や国分寺市での発掘例では、道幅は10mを超えている。
 そして古代道路では、10m~12mの道幅のものが全国で見つかっている。

 繰り返しになるが、少なくともここではっきりして来たのは、江戸時代までの日本の道路の歴史は、これまで考えられてきたように、古代の道路が狭くてクネクネしていて、それが時代とともに道幅を広げられ、真っ直ぐに直されて来たといった「進化・進歩の概念」は誤りだったという事が分かった。道幅が広がり、道筋が真っ直ぐになるのが「進化・進歩」と呼ぶなら、その逆の「退化・退歩」の道を歩んで来たとは言わないまでも、従来の考え方は否定されたと言わなければなるまい。
 それでは時代とともに日本の道路が広く直線的な道から、狭く曲がりくねった道へと歴史を歩んできたかどうかというと、まだはっきりとした結論を出すには発掘等の資料が少ないと言える。

 栃木県の小金井の一里塚間の道路の発掘調査では、道幅が9m程度の近世の道路跡が見つかっているし、東京都の国分寺市から府中市に掛けては東山道と中世の鎌倉街道が南北に並行して通っているが、片方は定規を充てたように直線的なのに対して、鎌倉街道の方は少しではあるが曲線的に通っていて明らかに双方に違いが見られる。
 こういった数少ない一例や一部を捉えて、そこから全体論をいうには無理があると言わねばなるまい。その様な段階にはまだなく、時期尚早と言えよう。
 

2010年2月11日木曜日

岩淵の渡しから志茂銀座通りの古道を歩く

 東京都北区のJR赤羽駅からそう遠くない所に、岩淵町という場所がある。江戸時代には荒川の渡しがあって、もっと古くは中世にまで遡って道と渡しの記録が残っている所である。

 西の方からは、富士街道が来ていて、南からは岩槻街道(日光御成道)が、そして東の方からは荒川の自然堤防上に沿うように通っている古い道が岩淵の渡しに集まって来ている。

 赤羽駅のすぐ西側を南北に通っている岩槻街道(日光御成道)は、中世の鎌倉街道中ツ道とどの辺りまで重なるのかどうかはっきりとはしないが、この岩槻街道は南に行くと、JR上中里駅の側の豊島郡家(郡衙)に行き着く旧荒川の崖線の道で、古代からあった道の可能性は十分にある。

 また岩淵の渡しを過ぎて北へと延びる鳩ケ谷から岩槻へと向かう道は、ほぼ鎌倉街道の中ツ道に近いルートと言えるだろう。


 今回歩いたのは、この内の岩淵から旧荒川に沿って自然堤防上を通っている旧道で、そこには神社や寺や商店街があった。
 
 宝憧寺の前にある江戸時代の道標で、「南 江戸道」「東 川口善光寺道 日光岩付道」「西 西国富士道 板橋道」とある。
 南へは線路に沿って、赤羽から上野を経由して東京へと向かう道をいう。東は、荒川を渡ってから北へと向かう日光御成道(岩槻街道)を指す。西はおそらく富士街道を行って、甲州街道と繋がるルートではないかと思われる。 


 国道122号線の新荒川大橋は補修工事中だった。


 岩淵の渡しに近い八雲神社


 延命地蔵尊


 道沿いの旧家のような民家



 庚申塔



 酒店と向こうの方にある煙突



 熊野神社(昔からの白酒祭りがある)



 地蔵・庚申塔
 

 落ち着いた雰囲気の志茂銀座の通り


 高くそびえる清掃工場の煙突


2009年12月25日金曜日

若き日の坂本龍馬が往来してた場所(品川の台場跡)

 


 「カモメ君、もう少し説明板の方に寄ってくれないかな。その方が収まりが良いんだけど」
 「えっ、ダメ?この影のラインとボディーのラインとの一体化を狙っているっていうのかい。へー、そのために体を傾けてポーズ取っているんだから、そこを撮ってくれって事なのか」
 「ハイ、分かったよ」

 といった話をした訳でもないんですが、こんなポーズでパチリと。

 ここは東海道の品川宿に近い立会川の河口で、土佐藩の屋敷があって、海を埋め立てて台場を造り、そこに大砲を据え付けて外敵に備えるといった工事をしていたという。そんな中に若き日の坂本龍馬がいて、この界隈を行き来したという話だ。


 という訳で、旧東海道と龍馬に関連した歴史感想を少し述べてみようかと思う。

 「織田信長の鉄砲隊(長篠の戦い)は有名だが、たぶん鉄砲は大阪堺の商人辺りから仕入れていたのかも知れない。
 宣教師にしても、それから近代武器にも日本の西の方からやって来た。そうした西洋の文化・宗教・武器の事情は、徳川家康もその後の徳川幕府の将軍なども当然良く知っていて、鎖国政策を取る方向へと繋がって行ったと思われる。

 例えば西から武器が入って来て、九州や中国地方の外様大名から攻め込まれ、東国関東の江戸幕府が破れるのではないか、といった恐怖感はかなり持っていた様である。
 江戸の防衛ラインの整備は、西方に対しては相当の力を注ぎ込み、東海道の道筋には名古屋城、岡崎城、浜松城、駿府城、小田原城などの防衛拠点があり、各宿場の出入り口付近では、敵が攻め込んで来た時の進行を妨げるために、道を折り曲げたり、枡を造ったりした。
 また千葉の東金や甲州への逃げ道も造られた。そして、これらの設計に中心となって携わった人物の一族は、機密を守るためもあったのだろうか結果的に根絶やしになっているという。

 幕末になると、開港を求めて欧米列強がやって来るのだが、彼らは直接に日本を攻める事より、外様で幕府に不満を抱いている薩摩と長州とを組ませて、そこへ武器を援助し、それを利用する事によって幕府を倒した方がベターだと悟って行ったと考えられる。そして実際に動いたのは坂本龍馬ではあるが。
 こうした事情から、倒幕ー明治維新へと繋がって行ったのだろう。もちろん薩長連合が、幕府との戦いに勝利し得たのも、近代武器つまり鉄砲・火器のお陰である。

 信長は元来新し物好きで、鉄砲をかなり戦闘に使ったようだが、江戸時代に入ってからの200年間は鎖国の時期が長く、その間侍の武器はほとんどが刀だけだった。そして幕末を迎え、まだ刀は武士の魂だとかいう時代に、中々その武器を鉄砲へとは切り替えられなかった面があるようだ。

 そんな事から、民間から兵士を募集して訓練した方が銃の扱いが上手かったのか分からないが、明治政府は武士を軍人にはせず、一般人を軍人にした。そのために多くの武士が失業したのも事実である。 

 こういう事は何故か教科書には書かれない。その時代によって、戦争や偉人ばかりを取り上げたり、逆に戦争の歴史はいかんと旧石器や縄文や江戸時代の戦争がなかったと言われる時代を教えようとか、色々ある。」

2009年11月10日火曜日

「海老床(えびどこ)」の十代目が描いた幕末の地図



マンションが切れている辺りが「海老床」の跡地








 文京区の「文京ふるさと歴史館」へ行ったら、駒込の岩槻街道沿いにある「海老床」という名の江戸時代から続いた髪結いの十代目の主人が描いた幕末の岩槻街道周辺の地図が展示してあった。

場所はどの辺りかというと、東大前を通っている本郷通りを北に行くと、農学部の所で旧中山道と分かれる。真っ直ぐ行くのが岩槻街道(本郷通り)で、「六義園」まで行く少し手前の所に地図に描かれた所はある。

この辺りは江戸市中の外にあるのだが、街道沿いにはかなりの数の商店が軒を並べていた事が分かる。
どんな店があったかというと、「かさや」「質や」「湯や」「まき炭や」「たばこや」「わたや」「油や」「下駄や」「水菓子や」「米や」「とうふや」「アラ物や」「さかなや」「そばや」「カンブツや」「紙や」「居酒や」「箒や」などだ。

「六義園」を目印に地図にあった所へ行ってみた。この辺りなんだがなぁ、と回りをきょろきょろしていると、通りすがりの爺さんが歩道のベンチに腰を下ろして、何かを聞いてくれと言わんばかりの顔でこっちを見ていた。

「この辺に、以前床屋さんがあったって聞いたんですけど」と尋ねてみると、待ってましたとばかりに「海老床、海老床。そこ、そこの信号の所」と指をさしながら、威勢の良い元気な声で教えてくれた。
「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」ってな感じだった。

通り沿いはマンションが建ち並んでいて、その谷間の様になった空き地が、「海老床」のあった所だった。

この通りの少し裏に入った所に「富士社」の広い境内や木々が描かれていて、脇道に入るとすぐに分かった。社殿は古墳の様な富士塚なのだろうか、その上にあった。
社殿に向かう急な階段を上って行くと、上の方から「にゃおー」と鳴き声がして、階段を上り切る前に上の地面にいた猫とご対面と相成った。
猫は非常に礼儀正しく脚をそろえて座って迎えてくれた。ちょっとビックリして、「昔この辺にいた人の化身か?」とチラッと頭を横切ったりしながら、カメラを向けてパチリ。

2009年8月20日木曜日

旧日光街道の千住宿




 
 北千住駅から南千住へと散歩した。写真は旧日光街道の千住宿にあった団子屋さんで、今はこの建物はもうない。

 というのも、東日本大震災(震度5強)で都内最高の揺れになり、扉や窓に隙間や傾きが出た。そのため平成24年3月25日を最後に建て替えの長期休業に入り、10月にオープン予定だ。

 写真の建物は明治時代に古材を集めて造られたという。 (「東京新聞」参照)                        
                                 
                                          2012.12.1更新