2010年1月2日土曜日

日本の教育を根本から考える(覚えるより理解する事が重要)


文部科学省


 この国は過去には中国や朝鮮から当時の先端の技術を取り入れ、また明治以降では欧米から近代科学技術等を取り入れて、文明化を果たした。
 敗戦後もそれは変わらず、欧米の技術を導入し、真似し、改良してより良い製品にし、外国へ売る事によって外貨を獲得し、物質的な豊かさを手に入れて来た。
 
 知っての通り、資源のほとんどないこの国では、人々が物質的に豊かになるためには、外貨を手に入れるしかない訳である。国内の内需産業だけの自給自足では国民の食料も輸入出来なくなってしまう。

 このようにして、これまでは欧米の真似をし、後を追って来ていれば良かったのであった、先進国になる前までは。しかし、気が付いたら、一番前の方まで来てしまっていて、もう目の前にはこれまでのように真似をする国がいなくなっていた。

 真似をする国が無くなってしまったら、今度は真似される国にならなければならない。つまりは新しい産業や製品を作り出して行かなければならない。
 従来と同じ物を作っていたのでは、後から追って来る国に負けてしまうのだ。ではどうしたら良いのか。

 第一に教育が変わらないと、新しい発想やアイディア、新製品、新技術、新産業は出てき難いと思われる。
 従来の教育では、欧米の製品を上手く真似て、効率良く、コストを下げて、かつ品質が良いものを作り出すための教育が最も重要で、指示された事をミスなくやる事が求められた。
 だから教師に言われた事をただ素直に受け入れ、何の疑問も持たず、考える事もなく、答案用紙に記入さえすれば良かった。

 ところがこれからはそういった教育だけでは、この国は立ち行かなくなって来る。教師の言う事に疑問を持ち、もしかしてそれは正しくはないのではないかとか、他の考え方も出来るのではないか、といった発想の方がずっと重要になって来る。

 教師はこれまでのやり方では、教科書に記載されている事以外は☓にしていたのが、それをやっていたのでは、新しい発想が進展しようとする所を潰してしまう結果になり兼ねないのだ。

 言われた事を覚えればいいんだ、の教育から、発想を大切にする教育への転換が出来得るかどうかが、今後の日本が世界に類のない高齢化やら、資源のない国の生き残りなどの難問課題の最前線に立ち、それに打ち負けることなく、突破して行けるかどうかに掛かっていると思われる。
 少なくとも、せめて教育が新しいものを作り出して行こうとする子供たちの芽を摘まないようにする事が、重要になって来ると思われる。

 その指示を誰が教師たちに出せるのか、そして教師たちが受け入れられるのかどうか。先ずはこの事が日本が難問に立ち向かえるかどうかの試金石になるだろうと考える。

 「考える教育」というのは、従来のやり方を否定しろというのではない。疑問を抱き、こういう考え方もあるのではないか、こうした発想が生かせるのではないか、といった新たな考え方を認めるべきだという事なのです。