2010年1月18日月曜日

「褒めて育てろ」ばかりの教育論者に一言。問題に立ち向かう自分との戦いをも否定するなかれ。

 予算を分捕って、事業を地元に持ってきてくれ、そしてカネをばら撒いて落としてくれ、そしたら票を入れてやるよみたいな。これじゃあ、民主主義は上手く機能していかないでしょ。そこにはやはり、国民への啓蒙教育が必要ではないでしょうか。

 さて教育についてですが、産業界はいつの間にか中国や韓国に追い付かれて来てしまったようで、ある部分では追い抜かれてしまった状態の分野もあると言えます。教育費が足りなかったのでしょうか。いえ、日本においては相当の教育への投資をしているのは周知の事実です。
 おカネが足りなかったから、追い付かれ追い越されたという言い訳は通用しません。何故なら、世界第二位の経済大国だったからです。どこに原因があったのか、徹底的に調べるべきです。

 「褒め殺し」とかいう言い方がある。褒めて褒めて、その気にさせて、天狗にさせて相手を潰す。

 仲間内で褒め合いっこをする。優秀だ、素晴らしいと、どんな駄作でもインチキでも褒めまくる。それを続けて行けば、落ちる所まで落ちる。こういう事も起こり得るのです。

 「子供を褒めて育てろ」という。しかしそればかりに徹する事には、懐疑的である。もし悪いことや改善の余地のある所を褒めたら、どうなってしまうか。

 一番心配するのは、褒められる事により、その事を辞める踏ん切りを引き伸ばしてしまう事だ。「この事については君はそれ程才能はないと思う。それでもやりたいならやれば良い。他に才能を生かせる所を見つけるのも良いんじゃないか。」
 そういう言い方がベストではないかと思う。

 僕は、他人から褒められるとすぐその気になって、勘違いしてしまいかねないので、やっぱり嬉しいが麻薬に近いものがあるのではないかと思っている。僕にとって一番ありがたいのは、バカ、くそ、死んじまえ的な非難ではなく、適切な批評や批判だ。こういうのは本当に肥やしになる。
 「バカじゃないの」とかでも、何くそといったエネルギーに変える事は出来るんだ。専門用語で「昇華」という。自分をレベルアップさせるために、自らを奮い立たせるのだ。今に見てろ。その怒りを憤懣を直接相手にではなく、 仕事や勉強にぶつけ、あたかも腐った悪いゴミを焼却炉で燃やして電力でも作り出すかのように、自身の中で変換させるのだ。

 人生は自分との戦いだ。常に戦争に近いといっても良い。その最も必要な戦いさえも避けてしまう様な教育を子供たちにされる事を恐れる。戦争は愚かで悪いことだという一念から、総ての戦いを否定し、逃げる事を教え込むのは正しい事ではない。
 総ての戦いを嫌う人達は基本的に好かないが、時には最終的な勝利を収めるためには一時的に逃げる事はある。自分の前に問題が起こって来た時、問題解決に立ち向かうか逃げるかの二つに一つしかない。常にエセ平和主義者はごまかしたり逃げたりする。戦わない。そして問題を先送りしてしまう。しかし、それは決して消える事はない。必ず、自身にさらに大きな問題となって帰って来る。エセ平和主義者の人達はその時自滅するしか道はないのだろう。

 逃げまくる事が正しいという人達は、常に他人のせいに事になる。国が悪い、あいつらが悪い、差別と偏見にやられた、回りが悪いと。確かにそれは多少なりともあったかも知れない。しかし、自分の力不足を認めようとはせず、他のせいにばかりするようでは、結局は何も解決出来ず、最低の結果に終わってしまう。
 どんな場合にあっても、隣の芝生とは例え違っていても、その中でぶつかって行ってベストを尽くしてやり切る事が、人間にとって最も尊いことなのだと思う。不平不満を言いだしたら切りがないのだ。

 ある時、「オレは自分がバカだバカだと思ってもがいていたら、いつの間にか利口になっていたよ。」と父親の前で言ったら、今は亡き父はそれに対して、「オレは利口だ、利口だと思っていたら、いつの間にかバカになっていた。」と言った。
 その利巧を生かし切れれば、私の人生の方が世の中にとっては良かったという事になるのかも知れないが、果たしてこの先どうなる事やら分からない。
 しかし私が仮に何らかの成果をあげて、世のため社会のために何がしかの貢献をし得たとしても、自分を育ててくれたのは父であり、家族であり、そしてこの国の社会である。そのお陰であるから恩返しをする必要はあるのであり、墓参りや欠かさずの感謝をするとともに、この国への何らかの貢献を更にして行かねばなるまい。そう思ってはいる。