4人は、小太りで年増の小弓、若いかな子、彼女と同年代で仲の良い満佐子、満佐子に付き添って来た新米女中の「みな」である。
願い事のコースを歩く一通りの流れを、順番に追って行ってみよう。先ずはお座敷の仕事を終えて、路面電車の終電もなくなった真夜中に近い月の煌々と照る夜に、ビルの建ち並ぶコンクリートの道路を下駄の音を響かせながら、彼女らは無言で歩き出すところから、橋渡りは始まって行く。
そして物語はこの先、1人づつ脱落して行き、最後に1人だけが全部の橋を渡り切る事が出来たであるが、先ず最初の脱落者になったのは若いかな子で、突然の我慢出来ない腹痛に襲われてリタイアしてしまう。続いて小弓が行き遭った知り合いから声を掛けられてアウト。残るは満佐子と女中の「みな」の二人になってしまう。
満佐子は後ろからずんぐりとした体の「みな」が付いて来ることにある種の不気味さと、気になって仕方がない思いを抱きながら、最後の橋も近づいて来た頃に、思いも掛けず警察官に呼び止められてしまう。橋のところで、手を合わせて願い事をしていたのが、川にでも飛び込むのではないかと疑われたのか、彼女は何も答えずに警官を振り切ろうとしたのだが、その腕を掴まれたが運のつきだったか答えざるを得なくなってしまい、その後ろにいて旨い事警官から逃れられた「みな」が、ただ一人すべての橋を渡り切った、といったのがこの小説の主な内容である。
この短編の中の都会のビル群、寒々と夜空に照る月、コンクリートの地面を照らすオレンジ色の街灯の明かり。そういう光と影の陰陽の描写と、幹線道路での車の往来はあるが、寝静まった都会のビル群の中に一台のけたたましく走るオート三輪や固い地面を蹴る下駄の音といった描写が、彼独特の夜の都会の光と影の強調や静かな中での響いて共鳴するかのように読者の頭の中でよみがえらせる音といった、見事な技術力には目を見張るものがある。
そんな中から幾つか例を挙げてみよう。
「自動車屋の駐車場に、今日一日の用が済んだ多くのハイヤーが、黒塗りの車体に月光を流している。それらの車体の下から虫の音がきこえている。」
「月の下には雲が幾片か浮かんでおり、それが地平を包む雲の堆積に接している。月はあきらかである。車のゆききがしばらく途絶えると、四人の下駄の音が、月の硬い青ずんだ空のおもてへ、じかに弾けて響くように思われる。」
この描写は、出発点の三吉橋へ向かおうと、主要幹線道の昭和通りを行く場面で、さすがにここは通行量が夜中でも結構あるみたいだ。
「四人は東銀座の一丁目と二丁目の堺のところで、昭和通りを右に曲がった。ビル街に街燈のあかりだけが、規則正しく水を撒いたように降っている。」
ここは1番目の橋に向かう道を見渡したところ、規則的に立っている街燈の光に照らされたアスファルトの路面の部分が、まるでそこだけ道路に水を撒いたかのように反射して色を変えていた、といった遠近感のある描写の部分である。その文字に描かれた様子が、読んだ瞬間に読者の脳裏に一幅の絵として鮮やかに浮かび上がらせる。
昭和通りの車の流れ
中央区役所と三吉橋
築地橋
「四人は都電の通りに出た。もちろん終電車はとうの昔に去って、昼のあいだはまだ初秋の日光に灼ける線路が、白く涼しげな二条を伸ばしていた。」
この様に昼の照りつける太陽で熱せられた線路と夜の風で冷やされた線路とを対比させる手法は、芭蕉の俳句に見られる伝統的な方法の一つである。
夏草や つわものどもが 夢の跡
あかあかと 日はつれなくも 秋の風
上の句は、「夏草と夢の跡」のもはや跡かたもなくなってしまって、ただ草が生えているだけの場所と、中世の武士たちがそこで栄華を誇って活躍していた時があったという人の世の栄華盛衰の無常を対比させる事によって際立たせている。
また下の句も、あかあかと照りつける太陽の光は焼けつくようなところもあるが、ふと日陰に入ったりすると、さっと涼しげな風が吹き抜けたりする。このギャップと対比を見事に表現している。
線路の描写は、芭蕉の時代から脈々と受け継がれて来た伝統的な技法の現代版の散文と言っても良いものと思う。ここでは線路の描写とともに時空のそれも描かれている。
次の橋は「入船橋」である。そこのところの描写を見てみよう。
「橋が明るく浮き上がってみえるのは、向こう岸のカルテっクスのガソリン・スタンドが、抑揚のない明るい燈火を、ひろいコンクリートいっぱいにぶちまけている反映のためであるらしい。」
この文章は私にとって印象深い、感慨ひとしおのものである。というのも、この短編小説を初めて読んだのが、確か学生の頃だったと思うが、それ以来、この部分の言葉とその時の脳裏に描かれた映像が、何故か頭の片隅にこびり付いてしまい、何かの切っ掛けでこれまでの人生の中においてしばしば記憶が蘇るのである。
「カルテっクス」という言葉の意味をいまだに知らない。なのにこの言葉がガソリンスタンドとくっ付いて記憶されて、ふとした拍子に出て来る。そして暗闇の中で、煌々と照っているガソリンスタンドの灯りがコンクリートの道路を照らし出し、まるでスポットライトでも当てたかのように何もない空間を浮かび上がらせている。この映像も一緒に記憶回路の片隅に仕舞われている。
たぶん、この小説を象徴する一部分として記憶の奥に仕舞われているのではなかろうかと思ったりもする。
「入船橋」を東から撮った。 ここから川筋はほぼ直角に左方向へと曲がる。
現在では以前の川底は広場に変わって、子供たちがボール遊びをしていた。
(つづく)