東京と、その周辺の県を訪れて、ランダムに記事にしていったブログです。東日本大震災以降、建物の耐震化の面からも建設需要が高まっているので、最近はその取材が多くなっています。 その他に政治・経済・教育などのミニ論評も挟んであります。
2011年10月21日金曜日
2011年2月8日火曜日
木下貝層から貝化石ブロックの石垣へ(古東京湾に思いを馳せる)
JR我孫子駅から成田線に乗り、木下(きおろし) 駅で降りて東へ15分くらい歩くと、国指定天然記念物の木下貝層がある。
貝層は関東ローム層の下にあり、約12~13万年前の地層だという。
高さが何メートルにも及ぶ貝の層である。
どのようにしてこれ程の厚い堆積層になったのか、すぐには想像が付かない。
台地の上から眺めた。今では写真のような住宅地になっているが、12~13万年前は古東京湾の海だった場所である。
住宅地の道路を西へと向かった。
木下街道を横切ってさらに西へ行くと、利根川の布川の渡しの方から来ている古い道にあたる。
その道に沿っては家々が連なり、集落をつくっている。道端の石の道標には、「南 江戸道」と彫られていた。
しばらく行くと、長屋門のある古くからの農家と思われる屋敷があった。
気付くと、石垣には、大昔の貝が含まれた石のブロックが使われていた。
向かいの山から切り出してきた石だという。
これは中々珍しい。
こんな所にも「貝」の文字が・・・。
ラベル:
千葉(観光・産業遺産)
2009年9月11日金曜日
手賀沼風景(白樺派がいた頃)
我孫子駅を出て手賀沼方面に向かい、台地から崖下に降りた低地にハケ道があり、その道沿いに志賀直哉の住居跡がある。
彼がここに移り住んだのが大正4年(1914)の32歳の時である。当時新婚で、翌年に長女が誕生するが生後56日で病死した。その時の事情や長年に渡る父との確執が解決に至る流れは、「和解」に詳しく書かれている。
ここから西隣の村に同じ白樺派の小説家だった武者小路実篤が引っ越して来た。彼の家は崖上の後ろを松林に囲まれた高台にあって、ここから見た富士山をバックにした夕焼けは大層美しかったそうだ。
その当時は沼の水位が高くなると、低地の道は使えなくなって、舟を利用して行き来したことが割とあったという。
手賀沼周辺は近年宅地化が進み、人口の増加とともに生活排水が川を汚すようになり、水質は悪化の一方だったが、最近になって浄化して行こうという試みが様々に始められてもいる。
この宅地化の波は現在の法律上、遺産相続する段階でその土地を細切れにしてしまうので、なかなか自然景観を適度に残した計画的な開発というのは難しいというのが実態の様である。
そんな中にあって武者小路邸跡一帯は残された貴重な観光資源といえる。崖下のハケ道沿いの古くからある農家、そこの低地から崖上の台地に通じる大きく切り通された斜面を含んだ山林の中を通る直線状の一本道、一部の山林は公園化されて、近くの中学生が体育の授業かで走り回っていた。
この一帯の中に一軒のカフェがある。木のテラスとガラス越しに広がる木々の緑が一つとなって周囲に溶け込んだ作りを醸し出しているレトロでシックな店で、この直前に志賀邸跡のハケ道を挟んで斜め向かいにある「白樺文学館」で当時の白樺派の展示の数々に頭の中が触れて来た所だったので、何となく一体化して当時にタイムスリップした気分がした。
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千葉(観光・産業遺産),
文学(小説など)・芸術
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