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2011年10月4日火曜日

どうなっているの?


この写真どこかが変ではありませんか?

電車の信号機のポールを見て下さい。垂直に立っているのが分かると思います。

そして線路の上を走る電車は、左の進行方向へと下って行っているのが分かるでしょう。でも人の歩いている坂道は、写真右手の方向へと下っています。

そうです、手前の坂と電車の走る坂の傾きが正反対なのです。




■ なぜこうなっているのかと言うと、電車のホームは左の下の方にあります。でも駅の改札は左の上の方にあるのです。そして電車の右の方向は高架になっているから、道路より高いのです。

 

2010年5月9日日曜日

道になった川


 橋が架かっていて、その下を道が通っている。道は所々で大きくくねっていて、以前は水路だった事が分かる。
 マンホールが見えるが、道の下は暗渠になった水路が通っているのだろう。

路地の水溜り


 弱い雨が降ったり止んだりしていた。水溜まりのある狭い路地裏に入ると一瞬世界が広がった気がした。

2010年1月25日月曜日

将門の首塚(東京観光の穴場)

 花束がいっぱいの首塚


 皇居に近い大手町のビルに囲まれた中に「将門の首塚」はある。中央政府に反旗を翻した平将門は、藤原秀郷との戦闘で倒れ、その首は京都に運ばれ、三条河原に晒された。

 その首が関東まで飛んで来たというのだが、実際は将門の部下か信奉者が盗み去って、関東まで持ち帰ったのが真相であろう。では何故、大手町に首塚があるのだろうか。
 
 ここからは、全く記録がないので、想像するしかないのだが、可能性が高いのではないかと思われる事を推測してみようと思う。
 葦が生い茂るイメージ


 大手町に近いところに「霞ヶ関」という地名の場所がある。今では官庁街として名高いが、ここには近世以前に関所があったので、それが名前の由来になっていると言われている。また霞の由来は、ここが東京湾の浅瀬が間際まで入り込んでいた所で、流れ込む川や湿地帯もあったりと、霧が掛かったりする事が多かったと思われるので、それに因んだものと考えられる。


 そして何故ここに関所が置かれたかというと、古代道と考えられる旧中原街道や近世の旧東海道、それに延喜式に駅名が記載されている古代の東海道もこの辺りを通過しており、南の方から道がこの地点に収束して来ている点がある。

 更級日記においても、作者が上総国から都へと向かう記述の中で、東京湾沿いの古代の道を行く場面が出て来るが、背丈以上もある葦の生い茂る低湿地の描写があり、当時の道の状況が思い伺えるのだが、その頃は律令時代も終わりに近づき、官道の手入れも思うに任せず、荒れ果てている様子がここから窺い知れる。

 そうしたこれらの状況証拠からして、ここに関所があった事が考えられる。そしてこの関所を通過する時に、将門の首を隠し持っていたのを役人に怪しまれてしまい、逃げ出したものと思われる。しかし持ったままではどうしても逃げ切れなくなって、止むなくその地で、他人に託したと思われる。
 関東では将門の評判は高かったので、託された人も何としても首を守ろうと思ったに違いない。街道沿いに住んでいたその人はそこで託されたものを守り切ろうと心に誓い、子孫や信用できる人物に言い残し、それが代々言い伝わり、今日に至っていると思われるのである。

 江戸時代以前のその頃の海はというと、「日比谷入江」が日比谷公園辺りから東京駅に掛けて入り込んでいたので、古代の道路は霞ヶ関から桜田門の辺りを通って、皇居を抜け、大手町の将門の首塚まで行くルートにほぼ沿う様なものだったと思われる。

2009年12月17日木曜日

東京都新宿区の坂


 東京を流れる荒川と、一部神奈川との県境を流れる多摩川の間の東京都の23区辺りは、関東平野の中にはあるが、ほとんどが台地上で水田地帯は少なく、畑の多い地帯である。
 そしてその台地上を流れる川筋が幾つもあって、その川によって大昔から悠久の時を掛けて浸食されて来た所が多く、従ってあちらこちらに坂が多いという事になる次第である。

2009年10月21日水曜日

首都高


 首都高池袋線の4本の高架道路(真ん中の上に良く見ると一本ある)が収束する向こうには、東池袋のインターチェンジがある。

 左に見えているのはサンシャイン60。

対角線の歩道橋


 高速道路の下にある対角線に渡した長い歩道橋。余りに長いんで、途中に支えを置いたという所か。