2010年1月30日土曜日

劣化と古墳の副葬品

鉄剣が出土した稲荷山古墳
(埼玉県行田市のさきたま古墳群)



 最近は物の劣化の事を考える事がしばしばある。ずいぶん前に山の方で木造の橋があって、渡れるかと思って足を掛けたらグラッと来た。橋は全体が腐っていた。湿気の多い所だと、空気と水蒸気などで腐りやすくなる。

 木の柱でも、風雨に晒され易い地面に近い所から腐って行く。一般に物は空気に触れる事での酸化による劣化、太陽の紫外線を浴びる事での組織の破壊による劣化、これらが多くの物質や生命体を劣化、老化させる大きな原因になっている。

 木は腐る。プラスチックも劣化する。紙も日に当たると黄ばんで来てもろくなってしまう。だから紙に書かれた巻物の仏教の経典や物語の絵巻物などは、なるべく保管して置いて、空気や光に晒さない方が良いのだが、どうしても展覧会などでの展示があるので、その度にそれらに晒されての劣化が進む事になり、それの進んだ場所は補修する事になり、補修が頻繁になると、元々の物がほとんど失われてしまう事にもなり兼ねない。

 最近の文化財に関した例では、高松塚古墳の壁画のカビの繁殖による劣化の被害が話題を集めたが、現代科学を持ってしても壁画の劣化を防ぎとめる事が出来なかった訳だ。
 だからと言って古墳をそのままにして置いても、劣化が起こらない訳ではない。僅かづつではあるがそれは起こっているのであって、鉄剣はボロボロになるし、壁画も元のままの姿で永久に残る訳ではない。

 これまで日本で発見された最古の文字資料としては、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に書かれてあった文字が有名である。もう一例、熊本県の同じ頃の古墳から出た鉄剣がある。
 これらの鉄剣は錆びて盛り上がって、脆くなっていたが、それをエックス線を通して見た所、鮮やかな文字が浮かび上がって来たのである。
 その文字は金製の細い針金を、文字にして鉄剣に埋め込んだもので、1500~1600年を経ても、全く劣化せずに綺麗に残されていて、稲荷山のものは鉄剣が折れていなかったので、ほとんどの文字が当時のままに読み取れる状況だった。

 これらの他にも何点かは見付かっている。恐らく金や銀ではなく、その他の金属や、刻書したものもあったと想像できるが、金や銀以外は残らなかった可能性が高い。

 また当時でも金や銀の貴重さは認識が十分にあったと思われるので、この様に金や銀による文字の書かれた鉄剣が収められた古墳は極めて限られた高い地位の人達だったろうから、その当時の天皇クラスの古墳にも収められている可能性は十分考えられる。

今日もまた、鳩山総理と小沢幹事長の政治とカネに纏わる問題ですか

 毎日のように秘書がどうのこうのと、あればっかりやってますね。秘書が勝手にやった事と言いますが、十数人いる秘書のうちに1人に変なのが紛れ込んでいたというのではなく、側近中の側近が、政治家本人の政治生命に係わるような事を、余程の事情がなければ、本人の知らないところで勝手にやる様な事があるものでしょうかねぇー。

 どうもこれまで余程の事情があった様な話は出て来ませんし、そうであれば、知らないというのは余りにも変だ。その辺りを十分に説明する必要があると思われる。
 

 政治家とカネに纏わる問題、こんな事を年がら年中取り上げて騒いでいる内に、失業者は増え続け、国家財政の破綻は迫って来ているといったもう片方の現実がある。

 恐らく誰もが、こっちの方の現実に立ち向かうのが心底から恐いのだと思う。またそれをどうにか出来るほどの実力を持ち合しているとも、個々人が思ってないのだろうかといった不安な面も感じられてしまう。それだから誰もが正面から見ないようにし、その問題から逃げているようにも映ってしまう。

 政治家もマスコミも一般人も経済評論家さえも、それらの多くの人達が、政治とカネの問題なら余裕を持って太刀打ちできるが、雇用や財政や産業に関しては、問題が大き過ぎてとても太刀打ちできるような事ではない、そう思っているのだろうか。

 しかし誰もが逃げ出している様に見えるこうした状況であっても、避けて通り過ぎる事の出来る様な事柄ではない。いつかは、必ず自分達のに身に降りかかって来るのだから。
 皆の誰もが危険な爆弾の処理をしたがらないで、たぶん自分だけは逃げ切れるだろうといった楽観的な考えを持っているのかも知れない。

 悲観的な数字を出すと、景気に影響するとかで、極めて楽観的な雰囲気を醸し出し、悪い数字を無視し続けて来たが、無視したからと行って悪い数字が消え去る訳ではない。

 「大蔵省(財務省)は権力者のトップであり、オオカミ少年のようにいつも『狼が来た』と脅かしているが、いつでもそれは大げさな嘘で、財政支出を増やすべきだ」と言い続けて来た反権力的な人達も、さすがにここに至っては、これまでの楽観論は影をひそめ、深刻に受け止めざるを得ない所まで来たようには見える。

 
 鳩山総理は五月までに普天間の基地問題が解決しなければ辞めるみたいな雰囲気を匂わせているが、思うに彼が出来そうな事は、その事よりも大金持ちで大金を持っているだけで、増えて増えて困ってしまい、母親があんな事をしてしまったといった、そういう金融システムの現在の在り方を少しは考えてみてはいかがかと思うのですが。自身が幾らかでも、否、一般人から見れば大きくその事態には係わっていると思われるのですから。

 一体に金持ちは銀行に置いておくだけで、増え過ぎてしまい、総理の家のように処理を困ってしまう。また一方で、借金している方のカネは雪だるま式に増えて行き、こちらも困ってしまう。

 こういう現状のこの金融システムの中で、今のような不景気で自己破産や倒産に追い込まれる人達が増えれば、貸し手の方も大きな損失を被る事になり兼ねない。

 そうは言ってはみても、鳩山総理に関しては10年間という長い期間に渡って、政治資金とか事務所の経理とか、自分の預金通帳なんかも見てないみたいな事を言ってるんだから、経済、金融、産業なんかお分かりにならないのではないかと思わざるを得ないのです。


 このまま行くとすると今後、失業率が上がって来ると、それと同時にどうしても社会不安が高まっても来る。また国の借金が増え過ぎても、財政破綻して、経済が混乱するといった可能性が高まる事は確実だ。
 では、この国の舵取りは一体どうしたら良いのだろうか。政府は、環境分野での産業の雇用を増やすと言っていても、実現までには、それなりの時間が掛かりそうである。そうであれば、取り敢えずは公共事業が手っ取り早い景気対策になる事は周知である。しかし費用対効果の低いこれまでの様な新規の事業の二の舞は避けなければならない。

 近頃ではあちこちでの道路陥没や水道管の破裂で徐々に一般の人にも認識はされて来てはいる所だが、耐用年数が来て古くなった上下水道管とか橋とかがこれから一気に増えて来る時期に入る。いずれは、必ずやらなければならない所は幾らでもあるのだ。

 もう一つが介護の分野だ。老人の1人暮らしや老々介護の現状とかが、事件や事故の時にその実態の一面が明らかにされるが、そこに国や地方の予算を振り向けて行く必要性は、これから高くなって行かざるを得ない。しかも地域の実情に合ったやり方を、それぞれの所で知恵を出し合って実行して行く必要がある。
 

2010年1月27日水曜日

池袋の周辺




東京芸術劇場の建物内部




サンシャイン60



 サンシャイン60遠望





鬼子母神境内の駄菓子店

2010年1月26日火曜日

草むらに潜んでいた廃車の群れ


 
 枯草の中から僅かに姿を見せているのは、廃車の群れだ。
 茶色い枯草と錆びた廃車が同系色になって、
 目を凝らさないと中々総てが見えては来ない。


 その内に冬が過ぎて、若葉が出始める頃になると、緑の葉で覆われ始め、
 夏になる頃にはすっかり覆い尽くされてしまい、
 そこに廃車の群れがある事さえも忘れてしまう。


 しかし再び冬が来て、枯草の季節になると廃車の群れが顔を出して来る。
 そして何故か、増殖しているように思えるのである。

2010年1月25日月曜日

将門の首塚(東京観光の穴場)

 花束がいっぱいの首塚


 皇居に近い大手町のビルに囲まれた中に「将門の首塚」はある。中央政府に反旗を翻した平将門は、藤原秀郷との戦闘で倒れ、その首は京都に運ばれ、三条河原に晒された。

 その首が関東まで飛んで来たというのだが、実際は将門の部下か信奉者が盗み去って、関東まで持ち帰ったのが真相であろう。では何故、大手町に首塚があるのだろうか。
 
 ここからは、全く記録がないので、想像するしかないのだが、可能性が高いのではないかと思われる事を推測してみようと思う。
 葦が生い茂るイメージ


 大手町に近いところに「霞ヶ関」という地名の場所がある。今では官庁街として名高いが、ここには近世以前に関所があったので、それが名前の由来になっていると言われている。また霞の由来は、ここが東京湾の浅瀬が間際まで入り込んでいた所で、流れ込む川や湿地帯もあったりと、霧が掛かったりする事が多かったと思われるので、それに因んだものと考えられる。


 そして何故ここに関所が置かれたかというと、古代道と考えられる旧中原街道や近世の旧東海道、それに延喜式に駅名が記載されている古代の東海道もこの辺りを通過しており、南の方から道がこの地点に収束して来ている点がある。

 更級日記においても、作者が上総国から都へと向かう記述の中で、東京湾沿いの古代の道を行く場面が出て来るが、背丈以上もある葦の生い茂る低湿地の描写があり、当時の道の状況が思い伺えるのだが、その頃は律令時代も終わりに近づき、官道の手入れも思うに任せず、荒れ果てている様子がここから窺い知れる。

 そうしたこれらの状況証拠からして、ここに関所があった事が考えられる。そしてこの関所を通過する時に、将門の首を隠し持っていたのを役人に怪しまれてしまい、逃げ出したものと思われる。しかし持ったままではどうしても逃げ切れなくなって、止むなくその地で、他人に託したと思われる。
 関東では将門の評判は高かったので、託された人も何としても首を守ろうと思ったに違いない。街道沿いに住んでいたその人はそこで託されたものを守り切ろうと心に誓い、子孫や信用できる人物に言い残し、それが代々言い伝わり、今日に至っていると思われるのである。

 江戸時代以前のその頃の海はというと、「日比谷入江」が日比谷公園辺りから東京駅に掛けて入り込んでいたので、古代の道路は霞ヶ関から桜田門の辺りを通って、皇居を抜け、大手町の将門の首塚まで行くルートにほぼ沿う様なものだったと思われる。

欧米と日本の教育の違いに起因したガラパゴス化なのか

 以前から勉強のやり方は、その本質のところからこの国のやり方とは違っていた。小学校の時から、先生は百科事典をノートに移して暗記するような勉強をする生徒を好ましく思っていたが、僕は内心そういう生徒を愚かな勉強の仕方をしていると思っていた。
  
 そんなやり方より、百科事典をいかに使って、どういう内容の事がどこを引けば出ていると分かれば、そして読んで内容を理解すれば、暗記して多くを覚え込むような事をする努力は無駄で、その分の努力は内容理解の方に使う方が能力を向上させるのには有効だと思っていた。

 しかし中学に入っても、教師は名前を覚えたりする極めて表面的な知識の暗記をするような勉強を肯定する場合がほとんどだった。

 それは長い間心の底辺に沈殿してわだかまって、時々思い出したように沸々と湧き出して来ては自身を悩ませる疑問であった。時あるごとに、理解すれば暗記なんかする必要はないと思っていた。例えば文法に関してだが、英語、古文、現代文とかあるのだが、あんなのは研究者がやるものだ、位に思っている。どこの国のどんな人だって、自国語の文法を考えながら、喋ったり書いたりしてやしない。だったら学生は多少はやっても、少し小難しいのは研究者がやれば良いのである。時間の浪費だと思う。

 源氏や徳川将軍の名前とか、年号とかあるが、そんなのは源氏の義家の何代前とか、徳川何代将軍とか、何年ころとか、頼朝の父とかそういうので覚えて置くので十分だと思うし、いちいち暗記なんかしていて、それに時間を取られたら、一流大学に入れるのかも知れないが、実質は暗記だけの考える能力の劣る人間になってしまう気がしていた。私は単に将来の収入を安定させるために、そうした学習、勉強、学問をすることに納得ができなかった。

 新聞に大学入試センター試験の問題が載っていて、渋沢栄一に関しての設問がけっこう長い量あった。私事ではあるが、まだ最近の事ではあったが王子の渋沢栄一史料館へ行って来たところなので、どんな問題なのか興味があった。その中の一部は、彼が日本で最初に作った銀行や株式会社の名前を問うもので、名前を覚えるのが苦手な私は多少それらしい記憶はあったのだが、はっきりとは思い出せなかった。

 王子の飛鳥山には博物館とかが3館並んであって、共通券の割引もあって、限られた時間の中で回ったのだが、中々覚え切れるものではなかった。
 しかしそんな中で、覚えている事は、彼がヨーロッパで経済や金融の仕組みなど学んで来たようであり、帰国後に江戸時代には存在しなかった銀行を明治時代になって初めて作り、社会にどう機能させていったのだろうか、という事だった。
 また株式会社にしても、株というものを社会にどう浸透させていったのだろうか。その辺のところが詳しく知りたい、と思った。
 名前なんか、中央だか、第一だか、国立だか、覚える気なんかなかった。そんなものはどうでもいい、そこに時間と頭を使う必要はないと常々思っている。

 かつてアインシュタインの伝記だかを読んでいたら、次のような内容の文章に出会った。インタビューアーが、彼にこう聞いた「音の速さをご存知ですか」と。その質問に「知らない」と彼は答えた。そしてこう付け加えた「教科書に載っているような事を覚えるために、自分の頭を煩わす必要はないと思う」と。このような主旨だったと記憶している。

 この例にもあるように、大体において欧米の教育は日本のように暗記を中心としてはいない。日本は特に高度経済成長期の頃に、教育人口が増えるに従って、論文試験は実質、実行する事が難しくなり、〇☓式の短時間で採点できる方式が取り入れられ、「論文式は主観が混じり不公平が生じるが、〇☓式は客観的で公平性が保たれる」といった暗記能力の面にのみに置いての客観性と公平が保たれるといった、あらゆる面の能力を判断する訳ではないといった真実や事実と異なる錦の御旗のもとに、教育の大衆化の流れと一体になって社会に浸透して行った。

 しかし一端流れができ、これで育ってしまうと、「これは不味いぞ」となっても、ではどうやったら良いのか他のやり方が分からず、どうにも変えられなくなってしまった。

 その結果が、教育にこれ程の費用を掛けている割には、費用対効果が表われないといった実態となって中国や韓国との競争においても、弊害の一端が見え始めているのではないかと思われるのだ。

小沢幹事長(民主党)VS東京地検特捜部(警察)について

 政治家が警察を取り仕切るのか、警察が政治家を取り締まるのか裏の方で主導権争いになっているらしい。

 民主党政権はどうも、小沢幹事長の発言を聞いていると、官僚の総てを指揮命令下に置くようにしたいと思っている様に見える。財務省も宮内庁も警察・検察もすべての人事権を握りたいみたいだ。

 その言い分は、民意による選挙で選ばれて来たからという事の様である。

 悪い人間というか全体の利益に反するような事をする人は、どんな職場や組織にも表われ得るのであって、政治の世界にも、警察の中にもそれは起こり得る。そしてそれが、その組織のトップであるという事も起こり得る事である。

 要は そうした時に、そのトップを辞めさせられる機能が上手く働くかどうかが重要だと言える。

 例えば政治家が悪い事をして、好ましくない組織と組んで、国が滅茶苦茶にならんとも限らない事態になったとして、トップの政治家が警察の人事権を握って自身の傀儡(かいらい)の様な人間を警察トップに送り込んで、捜査を自由に扱って、悪事を隠蔽したとしたら、国家にとって多大なマイナスとなる。

 また逆に、警察のトップが悪い人間の意のままに動いて、社会の犯罪を操る人間の都合のいいように犯罪捜査をしてしまったら、これまた国家にとって大変な事態と言えよう。

 一般論としてどういうシステム作りにして行くかは、これからの事として、まあオープンにして行って、悪いことが起こり難く、人々に見える様な人事が必要となって来ると思われるが、それはもう少し先の事として、何しろ民主党は明治維新のように一遍に政治主導にこれまでのシステムを総て変えようとしているように見えるが、無理があると思う。そんな能力があるとも思えない。

 国家財政の借金が膨らみ切って経済が破綻しそうだという時に、優先順位が違うだろうと言いたい。個人の意見としては、「人はカネでしか動かないんだ、青臭い事言うな」という様な感じの小沢幹事長による警察支配は好ましくはないという事である。

 カネが総てだという考え方には、元々から反対しているので。

2010年1月22日金曜日

鎌倉観光の穴場(名所・旧跡) その三

鶴岡八幡宮の大イチョウ


 別称で「隠れ銀杏」と言うようだ。公暁がここに隠れていて、階段を下りて来た三代将軍の源実朝を暗殺したと言われている。 血塗られた鎌倉の歴史の1ページである。
 
 鎌倉幕府を開いた源頼朝は、結果的に兄弟の義経を奥州平泉にて滅亡させ、その後には範頼をも誅している。そして頼朝の嫡男である二代将軍の頼家は、北条氏によって殺害され、その後に北条氏の後ろ盾で将軍になった三代実朝は、頼家の子だった公暁に暗殺されてしまう。 

 何でこの様な悲惨な事になるのかと考えてみると、その原因の一つには将軍の子供たちの養育に問題点が隠されている事が分かる。それは、将軍の子供達を御家人の乳母が育てる点にある。
 「産みの親より育ての親」という様に、将軍を育てた乳母の後ろ盾になる御家人が実権を握って、全体の政策を動かそうとするために各御家人の間で権力争いが起こるのである。

 その鎌倉幕府も、1333年に滅亡する。悲惨な最後の舞台になったこの地を、それから六百数十年経った今日では、多くの人々が観光で訪れている。


 
 
 
若宮大路






小町通り


 駅から八幡宮へと向かう小町通りは、軒を並べる商店と多くの観光客でいつも賑わっている。 

JR鎌倉駅



魚屋さん



 2010.3.7 一部加筆 

2010年1月21日木曜日

鎌倉観光の穴場(ちょっとした風景)

 ふとした何気ないところにも、地域に長く根付いて来たのではと思われる人々の生活のたたずまいや息づかいを垣間見る事が出来る。やはり古い歴史とともに歩んで来た土地であることが、そこかしこに感じられる。
  

 浄智寺の磨り減った石段


竹林

小さな祠


 井戸のある風景



 土産物店


亀ヶ谷坂の切通し


 深く鋭角に掘られた切通しで、鎌倉七口の一つとして古くから知られてはいるが、車が通るようになってさらに掘り下げられたのであろうか、写真の右手の斜面は垂直に近い程に切り立っていて、10メートル位はあるだろうか。

 鎌倉の山は、削られ易くもろい感じの岩でその多くが形成されているので、切り通したそのままでは、小規模な崩落などの崖崩れの危険性がある。だから結構あちらこちらで擁壁の工事が行われているのを見たりもする。

 ここの切通しにも通行に注意の看板がはられ、車は通行禁止になっていた。




鎌倉観光の穴場(名所・旧跡) その二

 JR北鎌倉駅前の道の歩道を鶴岡八幡宮の方へと歩いて行くと、やがて横須賀線の踏切が見えて来る。これを渡ってもう暫くすれば、建長寺に着く。この寺院は数ある鎌倉の寺院の中で最も規模が大きく、古い建築物も残されている。
 

総門


 山門



手前が仏殿、奥が法堂


上の写真と反対の角度から撮った


                       古木


半僧坊


勝上嶽


  建長寺の伽藍が建ち並ぶ境内を奥の方まで行くと、裏山の勝上嶽へ上る道がある。短編小説の「海と夕焼け」(作:三島由紀夫)で、夕日に照らされる相模湾の一望が美しい様子が描かれているので、ちょっと大変だが登ってみる事にした。  

 半僧坊まで行くと、そこからも相模湾を展望する場所はあったが、太陽が見える方向にあるので、眩しくて良く見えない。ここから勝上嶽へはすぐだった。そこにも展望台はあったが、同じように逆光で相模湾はうっすらと見える程度だ。
 
 空が夕焼けに染まるまでには、まだたっぷり時間があって、とてもそこまでは留まる事が出来なかったが、夕日に照らし出される相模湾は見てみたい気がした。
 しかし、ふと思った、「行きはよいよい、帰りは恐い、の世界だぞ」と。すぐ暗くなってしまうし、急坂で足場は悪い。やはり止めておいた方が良さそうである。 


2010年1月20日水曜日

鎌倉観光の穴場(名所・旧跡)

 鎌倉は源頼朝が幕府を開いた事で有名です。「いいくに(1192年)作った鎌倉幕府」で学生の頃に覚えた方も多いと思いますが、最近ではこの年号にちょっと疑問符が付いているようです。
 しかし我々一般人には、大体この頃という程度の目安でいいんじゃないでしょうか。

 頼朝が幕府をこの地に置く以前にも、祖先の源氏はここにいた事がありまして、現在の鶴岡八幡宮は、JR横須賀線の鎌倉駅と逗子駅間の線路側に元八幡という神社がありますが、そこから移ったという事です。

 また中世より前の古代にも、市街地の市役所に隣接した御成小学校の地に古代鎌倉郡の役所跡が見付かっていたり、古代の東海道もここを通って、葉山から横須賀の方へと行っていたので、その頃から重要な場所ではあったという事です。

 ここの地形の特色は、南は海で、北東西の回りを山でぐるりと取り囲まれています。その点で、山があたかも城を囲む外壁のような役割を果たしているのです。                    そしてこの内と外とを結ぶ道は、山の尾根を切り通して造られ、鎌倉七口といわれる7ヶ所の主要な切通しがあります。
  
 こうして見てみると一見堅牢な要塞のように思われますが、鎌倉幕府が最後を迎える新田義貞等の鎌倉攻めに顕著に見られるように、一端攻め込まれると弱い側面もあるのです。
 それは、「いざ鎌倉」という有名な言葉にもあるように、鎌倉に何らかの一大事があると、周辺の御家人がいち早く駆け付けられるように、それはあたかもローマ帝国の「すべての道はローマへと通ずる」のごとくに、道が鎌倉から放射状に延びていたために、その事が逆に攻め込まれた場合に極めて不利に働いてしまったのでした。
 
 その例が最も端的に表われているのが、鎌倉の北西境に、ちょうど鎌倉市、横浜市、藤沢市の各境が接している場所があります。ここは近世の鎌倉と甲州を結ぶ甲州道が通っていた所なのですが、その道と交差するように旧東海道が通っていて、さらには新田義貞が来た鎌倉街道上ツ道が北から甲州道に合流するのです。
 地理的特性や歴史背景はこれ位にして、コース案内をしていきましょう。


 JR横須賀線の北鎌倉駅で下車すると、円覚寺がすぐの所にある。
山門









2010年1月18日月曜日

「褒めて育てろ」ばかりの教育論者に一言。問題に立ち向かう自分との戦いをも否定するなかれ。

 予算を分捕って、事業を地元に持ってきてくれ、そしてカネをばら撒いて落としてくれ、そしたら票を入れてやるよみたいな。これじゃあ、民主主義は上手く機能していかないでしょ。そこにはやはり、国民への啓蒙教育が必要ではないでしょうか。

 さて教育についてですが、産業界はいつの間にか中国や韓国に追い付かれて来てしまったようで、ある部分では追い抜かれてしまった状態の分野もあると言えます。教育費が足りなかったのでしょうか。いえ、日本においては相当の教育への投資をしているのは周知の事実です。
 おカネが足りなかったから、追い付かれ追い越されたという言い訳は通用しません。何故なら、世界第二位の経済大国だったからです。どこに原因があったのか、徹底的に調べるべきです。

 「褒め殺し」とかいう言い方がある。褒めて褒めて、その気にさせて、天狗にさせて相手を潰す。

 仲間内で褒め合いっこをする。優秀だ、素晴らしいと、どんな駄作でもインチキでも褒めまくる。それを続けて行けば、落ちる所まで落ちる。こういう事も起こり得るのです。

 「子供を褒めて育てろ」という。しかしそればかりに徹する事には、懐疑的である。もし悪いことや改善の余地のある所を褒めたら、どうなってしまうか。

 一番心配するのは、褒められる事により、その事を辞める踏ん切りを引き伸ばしてしまう事だ。「この事については君はそれ程才能はないと思う。それでもやりたいならやれば良い。他に才能を生かせる所を見つけるのも良いんじゃないか。」
 そういう言い方がベストではないかと思う。

 僕は、他人から褒められるとすぐその気になって、勘違いしてしまいかねないので、やっぱり嬉しいが麻薬に近いものがあるのではないかと思っている。僕にとって一番ありがたいのは、バカ、くそ、死んじまえ的な非難ではなく、適切な批評や批判だ。こういうのは本当に肥やしになる。
 「バカじゃないの」とかでも、何くそといったエネルギーに変える事は出来るんだ。専門用語で「昇華」という。自分をレベルアップさせるために、自らを奮い立たせるのだ。今に見てろ。その怒りを憤懣を直接相手にではなく、 仕事や勉強にぶつけ、あたかも腐った悪いゴミを焼却炉で燃やして電力でも作り出すかのように、自身の中で変換させるのだ。

 人生は自分との戦いだ。常に戦争に近いといっても良い。その最も必要な戦いさえも避けてしまう様な教育を子供たちにされる事を恐れる。戦争は愚かで悪いことだという一念から、総ての戦いを否定し、逃げる事を教え込むのは正しい事ではない。
 総ての戦いを嫌う人達は基本的に好かないが、時には最終的な勝利を収めるためには一時的に逃げる事はある。自分の前に問題が起こって来た時、問題解決に立ち向かうか逃げるかの二つに一つしかない。常にエセ平和主義者はごまかしたり逃げたりする。戦わない。そして問題を先送りしてしまう。しかし、それは決して消える事はない。必ず、自身にさらに大きな問題となって帰って来る。エセ平和主義者の人達はその時自滅するしか道はないのだろう。

 逃げまくる事が正しいという人達は、常に他人のせいに事になる。国が悪い、あいつらが悪い、差別と偏見にやられた、回りが悪いと。確かにそれは多少なりともあったかも知れない。しかし、自分の力不足を認めようとはせず、他のせいにばかりするようでは、結局は何も解決出来ず、最低の結果に終わってしまう。
 どんな場合にあっても、隣の芝生とは例え違っていても、その中でぶつかって行ってベストを尽くしてやり切る事が、人間にとって最も尊いことなのだと思う。不平不満を言いだしたら切りがないのだ。

 ある時、「オレは自分がバカだバカだと思ってもがいていたら、いつの間にか利口になっていたよ。」と父親の前で言ったら、今は亡き父はそれに対して、「オレは利口だ、利口だと思っていたら、いつの間にかバカになっていた。」と言った。
 その利巧を生かし切れれば、私の人生の方が世の中にとっては良かったという事になるのかも知れないが、果たしてこの先どうなる事やら分からない。
 しかし私が仮に何らかの成果をあげて、世のため社会のために何がしかの貢献をし得たとしても、自分を育ててくれたのは父であり、家族であり、そしてこの国の社会である。そのお陰であるから恩返しをする必要はあるのであり、墓参りや欠かさずの感謝をするとともに、この国への何らかの貢献を更にして行かねばなるまい。そう思ってはいる。

2010年1月17日日曜日

デフレ克服で、インフレ政策を選んで良いのか

 デフレだという。円高で、中国から安い商品が続々と入って来る。100円ショップが各地に急激に広がっている。280円牛丼や、数百円のジーンズとかが話題になっている。
 
 安い輸入品が多く入って来ると、同じ様な商品を作っている国内製の会社の商品が思うようにこれまでみたいに売れなくなって来る。そうすると製品の単価を下げて価格競争する必要に迫られる。
 その結果、効率化や合理化が一層進められるようになり、従業員の給料が下がったり、品物の受注が減れば、従業員数も減らさざるを得なくなって来る。
 そういう人達が多くなってくれば、その人達が買う品物も少なくなって来るので、他の業種にも影響が及び、景気が悪くなって来る。

 一方で円高は輸入には有利に働くので、輸入業者は利益を得やすくなり、輸入品は価格が下がる事になる。その点では消費者にとっては好ましいと言える。また国内産業においても、原料の価格が下がるためにそれを元にした製品の単価や価格を下げる事が出来るので、国内産の原料を使うのでなければその点では相殺される面もある。
 しかし、国内産の原料を使った国内で生産される純国産に近い物は、大きな影響を受ける事になると言える。

 また、輸出産業においてもグローバルな大企業にあっては、以前からその傾向があった円高の対策は取って来ているはずであって、極端な話が、日本に10の工場があって、アメリカに10の工場があれば、ドルに対する円高の場合には、それ程に影響は受けない事になる。

 しかしながら、日本国内にあった工場が外国に移転するとなると、国内で働いていた従業員は、移転に伴って外国へ行く事が出来なければ失業してしまう事になる。また親会社の工場が移転する場合には、下請けの工場も移転する必要性が出て来るので、そうした事情で国内では失業者が増え、雇用の機会が減る事になってくる。

 だから国内においては、新しい産業を生み出して雇用の場を確保し、収益を上げて行かなければならないのだが、ここが上手く行ってない。

 そこで出て来るのがインフレにしたら、上手く行くのではないかといった考え方である。金融の小手先操作だ。分かり易く簡単に言うと、カネをばら撒けという事だ。しかも、総理大臣のような金持ちがカネをばら撒くのではなく、国が印刷機で紙幣を刷ってばら撒くのである。それを市場に流して、インフレを、もっと正確に言うと、徐々に物価が上昇して行くようなインフレを起こせないものかと考え、それを実行しようとするものである。

 計画的な制御されたインフレである。そうすれば国の膨大になった借金を少しでも目減りさせる事が出来、住宅ローンなど国民の借金も軽減させる事が出来て、その分の所得に余裕が生まれた幾らかは消費に回ると考えられ、景気が上向くのではないかというのだ。

 これをどうやって実行するかというと、国が国債を発行して、銀行がその国債を買う。そうして現金を得た国は、市場に子供手当や農家への所得個別補償、あるいは高速道路の無料化へといった事によって直接に個人へとおカネを給付する。
 また日銀は、低利で金融機関におカネを貸し、市場へ流そうとするが、物を作っても中々売れないので、低利でも借りようとする人は少ないようである。さらにはおカネをもらっても、将来の不安に備えるといった考えから、貯蓄に回す人も出て来るので、思ったより効果は出て来ない。

 しかしこれをやり続けるとどうなるのかというと、国債残高はさらに膨らみ続け、市場に出回るカネがだぶつき始めて来る。そうするとただでさえ膨大な国債残高の上さらに膨らむ事になるので、国債の方が先におかしくなって来る。要するに国家の信用が失われて来るのだ。収入も無いのにお札ばかり刷っている国家を運営していると見なされるようになれば、国債の長期金利は上昇し、国債の暴落が心配されて来るのだ。つまりはこの国の国債は信用できないとなり、その結果、ついに国債は暴落してしまい、経済は混乱状態になって、国家財政は破綻の結末を迎える事になる。

 じゃあ、どうすればいいのか。収入に応じた生活をするか、売れる物を、外国に買ってもらえる商品を作るしかない。あるいはもっと外国の人に旅行に来てもらって外貨を得るか、もしくは職のない人は海外へと職場を求め、外貨を得て、日本に残っている家族とかに送金して、それぞれの生活を成り立たせて行くしか方法はない。

 しかしながら、こういう危機感をもっている人間は一部で、多くの人がのほほんとして、大地震とか、強毒性のインフルエンザとか、首都圏水浸しとか、そういった論調の中に含まれる脅かしの部類だろう位に思っているに過ぎない。これら様々な危機にも脅かしの部分はあるかも知れないが、そうでない部分もあるので、危機対策を実施する事による利害関係のないところで、危険性のレベルを検討する必要がある。

 国の借金をこれ以上増やす増やさないにしても、インフレに期待したい人間とそうでない人で意見が割れる。それぞれの立場で、自分にとって都合のいい方の政策を指示するので、公平な立場で、しがらみのない人間が判断しないと、間違いが起こり易いと言えよう。

 この国の経済や財政への国民の危機意識が薄いのは、給与が安定した公務員や政治家が国のかじ取りをしているという側面もあるのであって、そういう人に限って、まさかそんな事はないだろう、何とかなるだろうと楽観的になっている場合が多いように思えるのだが。
 自動的にかつ安定してこれまでカネが入って来ている人は、まさかある時に突然収入がストップするなんて、本気で考えはしないのではなかろうか。どうにも不思議でならない。

 

2010年1月14日木曜日

川越(埼玉県)ぶらりと小旅行

 川越駅はJRと東武東上線が乗り入れています。駅から賑やかな方面へと向かい、商業ビルを一つ潜って二階から下に降りると、川越市で最も人通りの多い商店街があります。

 この通りは川越駅と西武新宿線の本川越駅を結んでいて、その間が一番混雑します。

 デパートや大型店では、丸広や丸井があります。


 大きめのレジ袋に詰め放題で千円という衣料品店もありました。


 レンガ造りのレトロな銀行と赤いポストが観光地っぽさを演出します。



 都心への通勤が便利という事で、こういったマンションも多いです。


 本川越駅へと曲がる道を曲がらずに、さらに直進しますと人通りは少なくなり、幹線道路を渡りますと、次第に観光客が目に付くようになります。
 大正ロマン風の建物が並んでいたり、ちょっと映画のセットみたいです。





 商工会議所の建物も年代物ですよ。向こうには大きな商家造りの建物があります。



 先ほどの道から一本隣の広い通りになりますが、この辺りが一番観光客が多い所で、蔵造りの商家が建ち並んでいます。この先のちょっと曲がって直ぐの所に、時の鐘があります。

 歩く観光客、自動車と自転車や人力車で道路は混み合っています。



 カメラや携帯で写真を撮る人が、あちらこちらに見うけられます。

 これが時の鐘で、先ほどの広い道から丁字路を少し入った所にあります。


 夫婦イチョウで、二本とも大きいです。