2010年2月11日木曜日

上野の寛永寺で墓地めぐり(東京観光の穴場)

 
 上野駅のプラットフォームから公園口の改札口へと階段を上がり切ると、ミルクや卵をたっぷり含んだ甘ったるい菓子の香りがいっぱいに周辺を包んでいた。

 その誘惑を振り切るように改札口を出ると、駅前辺りから動物園まで行く位の間は、休日の時のように人が多かった。広場では大道芸が数ヶ所で人を集めていた。

 東京国立博物館では縄文の土偶展を開催していた。その前を通り過ぎて、西へと博物館に沿うように進み、鳥取藩池田家江戸屋敷の移築して展示してある立派な門や旧東京音楽学校奏楽堂、京成電鉄の今では使われていない博物館動物園駅の地下からの出入り口施設、芸大生の作品展示建物などを過ぎて、その先の移築されて資料館になっている旧吉田屋酒店まで真っ直ぐ歩くと、上野や谷中の昔の下町の面影を残した建物がチラチラと点在して来るようになる。

池田家の門




博物館動物園駅跡

古いポスター



旧吉田屋酒店



お芋を売ってます

 そこを見学し、これまでと方向を変えて寛永寺の方を目指した。ここは江戸城の南にある増上寺と対比されるように、北に位置する徳川家の菩提寺ともいえる寺で、埋葬された歴代将軍は半数づつになっているという。
 もちろん家康は日光東照宮に埋葬され、三代将軍の家光も日光に廟がある事は言うまでもあるまい。

 お寺の人に話を聞く機会があった。それによると、バランスを取ってそれぞれの寺に墓所を分けた訳ではなく、偶々そうなったらしかった。
 徳川家の宗派は浄土宗で港区芝にある 増上寺が菩提寺であったのだが、ここ寛永寺に将軍が埋葬される切っ掛けになったのは、祈祷を携わっていた天台宗の天界上人が家康の信任が厚くて、その影響で次々と将軍の墓所が増えていったという事だった。

 だから俗に言われているように、江戸城の鬼門に増上寺と寛永寺があって、歴代の将軍が半分づつそれぞれの墓地に眠っていて、江戸城を守る形になっているという話は、根拠がないみたいだった。

 寛永寺霊園にある歴代の徳川将軍の墓は見る事が出来ないということだったが、十五代将軍の徳川慶喜の墓は、谷中霊園の中にあり、誰もが見学できるという。彼は徳川の最後の将軍であって、大正時代に亡くなっていて、宗教は神道だという。

 谷中霊園はここも寛永寺の霊園だが、墓参り以外の人も立ち入りは自由だ。霊園に入る手前で、人の並んでいる店があった。聞くと有名なケーキ屋さんとか言う。そこを過ぎて霊園に入ってすぐに案内があって、慶喜の墓へ向かった。
 途中で大きな古い石の扉に葵の御紋の印の墓があり、それを見ていたら、近くで説明をする人とそれを聞く数人の人の一塊りがあったので、行ってみると、一緒にどうぞという事になったので、側にあった慶喜の墓の説明を聞いた。

 それによると、徳川の三つ葉葵の紋にも違いがあって、葉の中に更に細かい葉の様なものが描かれていて、それの数の多さで位が違うのだという。ちなみに一番多いのが家康で33枚だそうだ。
 墓そのものは仏教ではないからなのか、これまでに見た事もない様な、ちょっと亀の甲羅にも似たものだった。

 それから一通り案内してもらって、駅までの帰り道に、側室の葬られている所があるというので、そこへ行くと、工事中だった。
 新たに墓地を販売するために、その一帯を調査し終えて、工事に入っていたのだった。説明によれば、将軍の側室たちの亡骸は、着物を着て、屈み込むように埋葬されていたという。


 徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財)