リンゴの「サンふじ」を買おうと思って、店に言った。
「これサンふじですか?」と聞いたら、「『ふじ』とあるから、サンふじですね」と言うから、「ふじとサンふじの違いは分かりますか?」と聞いたら、少々お待ち下さいと言って、担当者を呼びに行った。
その担当者が言うには、「もうこの時期(5月)はどこも置いてないですね。あれは袋をかぶせないんです。蜜が入っているのから持ちが悪いので、今の時期まで持たない」と言う事だった。
で、違う店に行ってみた。そこでは「いつもは5月くらいまで置いているんですが、今年はもう終わりですね。蜜が入ってないのもありますよ」と言った。
その次の店は「サンふじ」が置いてあった。「冷蔵してあった」と言って、ふじも一緒に並べてあった。
このように専門の担当者でもそれぞれ言う事が違っているのである。これは一つの例で、どこの分野でも専門家と称する人に意見を聞いたりすると、多少なりとも違う場合がほとんどである。
事実関係ですらこれほどに違うのだから、状況判断ともなれば、もっと違いに開きが出て来てしまう。
Aは「大した事ありません」、Bは「大変な事になっています」、Cは「事態はすぐ治まります」、Dは「長期化しそうな気配です」と、みんなその事態に対しての印象が違う。それでは自分で行って、状況判断をして来ようとか、他の様々な手段を用いて、最終的な判断を下す事になる訳である。
人を読む、数字を読む、流れを読む、目に入ったものを読む、一つ一つの情報を読んで判断をし、最終的な結論を下さなければならない。
こうした手続きを踏まないと、より好ましい結果を引き出す事は難しい。
このやり方は、大体何にでも応用できるのであって、基本はこうしたやり方しかないと思われる。政治判断にしても、研究でも、取材でも、捜査でも、ありとあらゆる事に、情報を精査し、様々な角度から検討を重ね、いかにして真実に近づいて行くのかである。
一人の人に聞いた事をそのまま鵜呑みにしてしまうと、その人が得たある部分的な偏った情報だったという事や、本人の勘違いや単純な誤りだったり、情報操作がされているなど色々な場合があり、正確な情報は伝わらないのがごく普通である。
「信頼はしても、信用はするな」という言葉があるが、一人の人からの情報のみを信用して、それが仮に違っていたからと言って、裏切られたと思うのはお角違いである。
人間には、間違いは付き物である。ウソを言おうと思わなくても、間違いなんて日常である。それを織り込まないのは、本人の力量不足という他はないのだ。