2010年6月21日月曜日

日本サッカーと平等思想

 オシム元サッカー日本代表監督が「本田だけを持ち上げてはいかん。カメルーン戦での勝利は、全員で勝ち取った勝利だ」と言っていた。

 全員サッカーが日本のポリシーだ。野球と違い、なるべくヒーローを出さない。個人技やスタンドプレーをしないようにする。
 昔はドリブルの杉山、シュートの釜本という様に、平等とチームプレー思想はごく一般的だった様な気がするが、Jリーグ発足時の頃からか、その手の色合いが強く出て来ている様に思える。

 そのために、日本のサッカーはパス回しばかりで、ドリブルの個人技もなければ、シュートでも枠の中に入れない様に蹴っているとしか思えないようなのが時々見られたり、ゴール前に行っても尚パスの相手を探す様なのがある。

 個人が目立ってはダメなんだ、チームで勝つ。これが余りにも徹底してしまったために、点の入らないサッカーになってしまったのだろうか。

 これは恐らく平等思想から来ていると思われる所があり、教育の世界にもこの思想は広く浸透している。一人だけ目立ってはダメだ。皆で一緒に進む事が大切といった考えである。確かにチームワークは大切ではある。
 しかし目立って能力を発揮すると、妬みが湧き起こり、チームワークが乱れるからほぼ平等に能力を発揮するのでは、比較的目立たない選手に合わせる様になるのでチームは強くはならないと思われるのだが。

 つまり弱肉強食の社会ではなく、弱者も一緒になって全体をボトムアップして行こうという思想なのかも知れない。強くなる事よりも、チームワークと平等が大事なのであろう。

 これからの日本は少子化で高齢化社会だから、否応なく体力面での弱者が多くを占める様になる。だからと言って年寄りが若い人達を逃げ出さない様に閉じ込めて、我々のために自分を無にして働けと言っては恐らくまかり通らないだろう。

 平等思想には、試験の成績や運動会の徒競走で順番を付けないというやり方などがある。

 成績に順番を付けると、それの下の方の者が可哀そうといった感情から生み出されて来た思想なのだろうか。人は平等であり、それをあらゆる所に徹底して推し進めようとしているかのようである。

 その思想もある程度、ある部分は共感出来るものもあるけれど、現実的とは言い難い様な平等原理主義思想までになって来ると、とても社会には適応し難いものに思えるのである。

 そういう思想の表立ったものを、実際にある程度纏まった形で見たり聞いたりをした事はないのだが、何となくそこここで感じるのというのはある。とにもかくにも、はっきりとは表に出て来ていないので、想像するしかないのだが・・・