2010年4月28日水曜日

ゆでガエルの法則と日本の現状

 中国での自動車の販売台数が世界一になったといったマスコミ報道が、つい先日あった事は記憶に新しい。

 日本のメーカーも随分と向こうに工場が増えている様である。家電メーカーも例に漏れないだろう。日本各地で町中の大きな工場が次々と消え、その広大な跡地に大型ショッピングモールが出店したりしている。

 人件費の安い中国へと工場が移って行ってしまう。そして日本国内には失業者が増えて行く。

 日本では中国と比較して、高等教育を受けた人が多いから、人件費の高い分、付加価値の高い仕事をしようとして、コンピュータをやたらに搭載した自動車や機能満載の携帯電話を作ったが、ガラパゴスとか言われている様に、世界では中々認めてもらえない。

 つまりこういう事態になっているという訳である。わが国は敗戦から、高度経済成長を遂げて、先進国の仲間入りをする様になった。そして多くの人々が高等教育を受けられる様にもなった。その結果、賃金の高い人々、教育水準の高い人々が大量に生まれた。

 その人達がその立場に見合った仕事を思う様に出来ていない。成果が十分に上げられていない。そのために、国の税金に頼って生活する人々が増え、あちこちで借金依存型の体質が蔓延してしまい、このまま行くと大変な事態になる事が予想されるが、それが10年先か20年先か誰にも確かな予測は出来ない。

 有名な「ゆでガエルの法則」というのがあって、蛙を熱い湯の中に放り込めば、すぐさま飛び出すが、水の中に入れて置いて徐々に温めると、飛び出る時期を逸して死んでしまう事を他の例にも当て嵌めていうのである。

 例えば、今日の日本に当て嵌める事が出来る。このままでは大変だと、頭では分かっていても、実感が湧かないというのが現状である。だからどうしてもぬるま湯の中から飛び出そうという気になれないのである。

 企業ならば、親会社が外国へ行ってしまったり、仕事が激減したりで実感が半端じゃない訳だが、税金で安定した収入が確保されていると、そういう実感が湧かないのである。だからどうしてもぬるま湯の中から出るのは嫌だといった意識の方が勝ってしまうのだ。

 

2010年4月26日月曜日

適正競争と過当競争

 とある東北地方の都市にあるデパートで、バーゲンセールの時期だったので、男性用の衣料品売り場へ行った。
 
 そしたら女性物は相当割引していたのに、男性衣料は余り割り引かれていなかった。

 それで店員の人に、どうしてなのかと聞いたら、女性の物には流行があるので、来年になるともう売れなくなってしまうからだという。
 それに比べて男性衣料の方には流行がないので、来年も売り場に出す事が出来るのために、割引はそれ程出来ないとの事だった。

 最近では、ショッピングモールへ行っても、駅ビルや駅近辺の商業ビルなどへ行っても、男性用の物はほとんど消えてしまい、若い女性の衣服だとか、アクセサリーや小物それに化粧品などばかりと言った感じが強い様な傾向が見られる。

 あれだけ多くがひしめき合って、良く店がやって行けるものだと感心してしまう。そんなに若い女性は使えるおカネを持っているのだろうか。

 恐らくその分野が儲かるという事になると、同じ様な店が次々と進出して来て、その内に供給過剰となり、持ちこたえられなくなったどこかが店を閉めて行く事になるのだろう。所謂ミニバブルといった現象が起こるのだと思われる。

 こうした事は、大型のショッピングセンター競争でも起こり得るし、近頃、都心の駅前で勃発している家電量販店のガチンコ戦争にしても、供給過剰になって消耗戦がその内始まる事になるだろう。

 こうした消耗戦の過程や結末は、そごうやダイエーなどで十二分に見て来たのだが、社会にとって決して良い結果はもたらさない様に思われる。
 
 何か税制のあり方やその他の法的規制のあり方が、もう少し改良の余地があるのではないかと思われるのだが。


 以下に、ミニバブル的な傾向を呈している、あるいは表しつつあると思われるものの例を取り上げてみた。
           
    ① 大規模なショッピングセンター

    ② 大型家電量販店

    ③ 若い女性用の衣料や小物類を販売する店舗

    ④ 犬や猫のペットブーム

    ⑤ 贅沢な博物館建物

    ⑥ バッハホールの様な贅沢豪華な建物

    ⑦ 地方空港  
   

 公共施設の場合は、隣の自治体やあそこで造ったから内でもといった様に、横並び意識で、借金を膨らませても造ってしまう事がある。
 民間の場合には、あそこに店を出したので、うちの客を奪われてしまいそうだから、こちらもその近くに出店するという事で、経営の健全化を失わせても資金の投入をしてしまったりする。

 つまり一定のルールの中での競争は社会に良い結果をもたらすが、これが過当競争になってしまうと、脚の引っ張り合いや消耗戦、潰し合いになってしまい、当事者いずれにもまた社会全体にも良い結果はもたらさなくなってしまい兼ねないので、何らかの対策が取られるべきだと思われる。

2010年4月22日木曜日

スポットライト症候群と呼ばれているもの

 「温室効果ガス排出量を2020年までに25%削減する」と言って欧州で大好評だった人、「県外に移転する」と言って大喝采を受けた人、「私には腹案があります」と言って国民に「えっ?」て注目を浴びた人、「私は愚鈍です」と党首討論で言ってまたまた国民の驚きを買っている人、・・・

 自らの言動によって、良くも悪くも注目を浴びる。その注目される事が一種の快感で、止められなくなってしまう。そしてまた、その種の言動を繰り返してしまう。

 5月末までと別に言わなくても良い事を言ってしまって、「本当に大丈夫なのか」と回りが心配し、世間がその期日に注目する事で、本人は選挙への影響を考えると不安は確かにあるのだろうが、注目される事の快感の方がそれに勝ってしまう。

 5月末になったら、「私は今年の5月末と言ったつもりはない」と、来年5月末だと言い出しかねない。誰かがそう言っていたが、あり得る事だと思う。それで日本中が大騒ぎになる。これがまた、どうにもならない快感になるの訳である。

 こういうのが、どうもスポットライト症候群というものらしい。ある種の病的な傾向を言う様なのだが、そう言われてみるとこれまでの言動を思い起こして見た所、そんな気にならなくもない。

 そういえば「私を宇宙人と呼んでください」みたいな事も言ってなかったっけ。ちょっと心配である。

専門家の「さが」と目利き素人という専門性

 専門家、技術者は暴走するものであるといった見方で捉えた方が良いのかも知れない。彼らは原爆を作り出したし、金融工学の専門家もサブプライムローン問題を引き起こした。
 常に専門家はそういうものである。自身が出来得る限界を目指して開発を進める訳だから、フランケンシュタインが作り出される事もあるのだ。

 だから専門家に任せて置けば事が総て上手く行く訳ではないのである。素人が専門家の作り出したものを常にチェックして行く必要がある。目利きの素人である。
 今で言うと事業仕分け人といった所か。学者が「歴史の法廷に立つ覚悟はあるのか」と仕分け人に言ったが、学者は自分達の研究成果が歴史的にどんな価値を持つかはほとんど知らない。彼らは実験で出来てしまった物を世に出すだけで、後は人々のつまり素人の評価に委ねるだけである。


 例えば今話題の車の電子化にしても、同じ様な事は言えるのかも知れない。電子制御でコントロールするそのブラックボックスの中は検査できないから、車検の意味も失われがちになって来るのではなかろうか。

 ブラックボックスの中の老朽化は、耐用年数は、故障の確率は、一部が故障した時のバックアップはどうなのか。色々問題点はあるのではないだろうか。

 しかし一方で、この素人も素人に徹すれば、専門性を帯びて来る現実があるという事も、肝に銘じて置かねばならない。

商店街に見る大都市と地方の格差


巣鴨






江東区




池袋


原宿






群馬












茨城





 始めの3枚の写真は「おばあちゃんの原宿」と呼ばれて、全国的に有名になった巣鴨の地蔵通り商店街だ。健康を願うお年寄りが引っ切り無しにやって来る。それに釣られるように中高年も、また若い人も結構多い。

 若者の街に余りお年寄りは見受けないが、お年寄りの街には若者も結構見かける。

 こうした例にならって、地方の商店街でも健康の願いを叶える地蔵さんとかを置いて、お年寄りに優しい商店街作りをしてはどうだろうか。

 関東地方周辺の主な地方都市は、そのほとんどが城下町で、市の中心商店街はその中に位置している。
 しかも歴史を持った商店街が多いといえる。

 シャッター通りになっては、観光客も寄り付かなくなってしまう。地元自治体をあげてのバックアップ体制を取るべきではないだろうか。

2010年4月20日火曜日

埋蔵金を探していたら、隠れ借金が出て来た?

 国の特別会計とか、埋蔵金とか以前は騒いでいましたが、最近はぷっつりとその話題も消えてしまいました。
 想像してみますに、貯めてあるおカネがあると思って調べてみたら、あに図らんや隠れ借金が続々と見付かってしまい、これは公表すると国の一大事と頬被りしてしまったという所ではないのでしょうか。

 何でも、UR 都市整備機構の累積債務は13兆6974兆円で、毎年毎年1090億円程度の国や地方公共団体からの税金が投入されているという。

 独立行政法人は何千になるとか多過ぎて忘れたが、1法人でこうだからまさかこれが数千倍あるとは思わないが、・・・

 つまり会社でもそうだが、隠して隠してもう隠しきれなくなって、ついに表に出た時にはもう手の打ちようがないといったパターンが多いのである。

 しかしもしこれでまた隠し続けていったら、パンクした時にはその衝撃も今以上に大きくなる訳だから、早いうちに大きな傷を受けないようにオープンにすべきなのだが、H総理の普天間基地問題での言動を見ていると、・・・

 余りこういう事ばかり書きたくはないんだが、事態を良くする方向へと持って行く人が、どうにも少ないもんで、仕方なく義務感で書いている。
 
 何も公務員が良くないと言っている訳ではない。本来、民間企業が行うと採算性を考えざるを得ないので、その採算性には乗らなくてもどうしても社会にとって必要な部分が出て来る。それを公共としてやるのであって、誠に有意義なことである。だが、それが本来の目的を見失って、増殖という違った方向性を見つけ出して仲間を増やして、権力を握って自分達に都合の良い社会を作ろうとした時に、その組織が癌細胞に一気に変わってしまうのである。

 そういう採算性の取れない組織が、数え切れないほどの独立法人や一部の民間企業を巻き込んで余りにも巨大な組織に広がってしまった結果、膨大な借金を国、そして国民が背負う事になってしまったのである。 

2010年4月18日日曜日

木々の姿

コモド大トカゲじゃありません、根です


木の見事な開脚です


相当複雑な育ち方をしちゃいました



角ではありません枝です

2010年4月16日金曜日

桜の季節






城跡の桜



公園の桜




川沿いの桜と菜の花





古墳の桜




2010年4月15日木曜日

借金依存体質から脱却し、問題解決力や説得力を強化

 近頃では公共の利益の重要性というのを誰も本気で教えない様で、何でもかんでも自分やその仲間の利益だけ追求する人達だらけになってしまっている感がある。
 国のためにと例え口では言ってもほとんど口先だけで、自分達にとって都合の良い事しかしない傾向がある。

 個人の一人ひとりががんばって利益追求をすれば、全体が良くなって行くというシステムになっていれば良いのだが、実際にはそうなっていない。
 自立の方向へ行っているのではなく、どちらかというと依存の方向へ行ってしまっている。詰まり税金に依存する方向へと進んで行ってしまっているために、国や地方の借金が増える一方になってしまったのだ。

 だから流れとしては個人個人の公共への依存傾向がどんどん高まってしまって、自立から遠ざかってしまった結果、国全体は悪い方向へ行ってしまったと言う事になる。
 利益追求が、結果的に借金に依存する利益の追求になってしまった訳である。

 だから当然国全体としては建て直さなければならない状態であるにも拘わらず、悲観的で暗いのはいかん、明るく楽観的に笑い飛ばせば何でも良くなるみたいな洗脳をマスコミとかの一部がするので、多くの国民が重要問題に正面から立ち向かわず、先送りにしてほったらかし、何とかなるさでこれまでやって来てしまった。

 何かを変えようとすれば、必ず利害関係の壁にぶち当たる。そうすると事が動かなくなり、結局先送りになるといったパターンがこれまでだった。
 そして文句の出ない将来の人々に難題は任せて、自分達は借金をしてカネをあちこちにばら撒いて人気を得る事ばかりに専念して来た。僕から言わせればハッキリ言ってレッドカードである。

 こんな悪口めいた事を言うとへそを曲げて嫌がらせをやって来るだけだから、事態は進展しないのでこれ以上は止めて置くが、褒めても図に乗るばかりだし、どうやっても難しい。しかし難しいからと言って、逃げたり、先送りにしたり、悲観的になっていられない。とにかく立ち向かって出来る限りの事をしなければならないのである。

 何しろ幾ら説明しても、理解力が身に付く様な教育の体制ではないので、そこが若干乏しいので納得させるのが容易ではない。それはお互いに言えることである。結局今日的な教育の在り方に行き着く訳だが、今更もう育ってしまっている人達に言ってみても始まらない面もあるが、根気強くやる必要はある。
 
 それにしても近頃のH総理を見ていると、正直な所には好感が持てるが、言葉が軽くて、調子の良い甘い言葉ばかりを選挙の前に言ってしまっているので、それの言い訳と取り繕いでしっちゃかめっちゃかになっているといった印象を受ける。
 多分政権をとる事を予想していなくて、何でも選挙の前に言っちゃったというのが真相ではないだろうか。もしそうなら無神経というか、無責任である。

 今の政治家の人達も高学歴の人が多く、学校の勉強では優秀だったのだろうが、様々な社会問題への解決を模索して行く能力や利害関係者への説得力などの能力といった点においては、現実にあの程度のレベルのものを見せ付けられると正直情けなくなって来る。

 大学でそういうシミュレーションでもやらないものなのだろうか。例えば沖縄の米軍普天間基地は市街地の中にあり、騒音や航空機事故の場合を想定すると市民生活に及ぼす問題点が多い。
 これを解決するために基地の移転やあるいは住民の移転などを考える。その場合、米軍の部隊の編成や訓練や将来計画を考えないで、こちらの都合だけで、県外に移転してもらう、太平洋は第七艦隊だけで良いなどと言って、それで相手に受け入れられる余地があるのかどうか、といった様なものである。
 民主党について言えば、東西冷戦時代の社会党の立場ではない訳である。

 一番の問題は現実を知らな過ぎるのではないか。現実を分析して、その上で判断を下す。その現実を把握しないで、地図を見てここへ移す、あそこが良いとか言ってるだけに見える。冷戦が終わったから軍隊はいらないんじゃないかとか、極めて単純な発想と思えてならない。
 
 今の政権のトップは反小泉-竹中で、詰まりは反米、そして親中路線を明確にして来ている。その一環での普天間と捉える事が出来る。
 そうすれば一層米国は米中関係を重要視して、このままでは日本は完全に取り残され、輸出先細りして企業は海外に脱出するし、若者も外国に出て行くしで、限界集落と同じ様な様相に国自体が向かって行かざるを得なくなるかも知れない。


 社会に出てから必要な能力、要素といったものが学校教育の中では、学習したり訓練したりが取り入れられていないといった現実があると思える。こうした様々な問題点が今の学校教育現場に存在してはいるのだが、何一つ手が付けられていない。

2010年4月14日水曜日

消費税率を上げないと「この国は、もたん」とか言うけれど

 消費税率アップを検討って、結構じゃないですか。

 じゃんじゃん検討して下さい。

 しかしその前に、

     ①天下り公務員の二重三重の退職金の廃止

     ②高額の公務員給料のカット

     ③議員定数の削減

     ④高額な議員給料のダウン

     ⑤カネの掛からない選挙を実現するために、インターネットの活用も検討する

 などなど、幾らでもやる事があるのに全く進んでない様に見えるのはどういう事なのでしょうか。
 自分達や支持母体以外の国民により多くの負担を押し付ける様な政策を実行すれば、反感を買うと思いますよ。

 予算(カネ)をバラ撒くだけの選挙にしか関心のない議員だけというのなら、選挙をやるまでもなく、クジ引きで議員を決めた方が、税金も掛からなくて済む。

 歳出をカットするにしても、税金をアップするにしても、人々を説得する能力が政治家には必要と思われる。
 
 ひとりでも多くの国民が納得出来るように、多少不利益ではあっても説得のし切れる様な政治家に選挙で勝って欲しい、心からそう願うだけである。

2010年4月13日火曜日

廃墟の美しさ(軍艦島から思うこと)


 廃墟ブームだという。長崎県の軍艦島(端島)は、最近良くテレビ等で取り上げられて広く知られるようになり、島へ上陸できるような観光客のための施設も造られたりして、この1年で訪れた観光客は7万人に上るという。
 地元への経済波及効果は14~15億円にもなるとの計算もある。

  この島は南北が約480メートル、東西は約160メートルの小さな島で、海底石炭の採掘のため、石炭産業が盛んな頃の1960年には5262人が住んでいたという。

 それだけの人が住む訳だから、高層のアパートがびっしりと建ち並び、そこには小中学校や様々な商店の他、病院や映画館、寺院やパチンコ店もあったという。しかし炭鉱は1974年に閉山となり、2000人いた島の人々もそこを去った。
 この他にも最近では、炭鉱、精錬所、鉄道、水力発電所などの使われなくなった跡が若い人を中心に観光ブームになっているという。

 僕も以前に信州のリゾートホテルで夏場に働いていた時、休憩時間になると近くの廃墟になったホテルをしばしば見に行った事があった。
 その場所に立つと、「夏草や つわものどもが 夢のあと」という気持ちになれたのだった。割れたガラス窓、壊れたものが散乱したロビー、雨水が浸み込んだりして染みになったり、色褪せて破れたジュータン。

 恐らくかつては多くの宿泊客で賑わっていただろうそのロビー、忙しく客の応対に追われていただろうホテル従業員達が、まるで陽炎のように思い描かれて、何とも言えない気分になるのであった。生き生きと働いていた人々と楽しくバカンスを過ごしていた人々が目に浮かぶと同時に、現実の廃墟が対比的に映し出された。

 歴史の中の栄枯盛衰、奢れる平家久しからずや、万物流転、行く川の流れ絶えずして、行き交う人もまた旅人なり、詰まりそういうもの、大きく言えば歴史、歴史は常に流れている、といったものを感じるのである。

 それも一つの歴史教育の一環であると思う。何もボロボロになった建物や芸術品や他の文化財を綺麗に修復して最初に作られた姿を復元する様にしたものが、歴史文化遺産とばかりは言えない。
 歴史遺産はそれを見て歴史を感じられなければならない。真新しく修復して、昨日作った物の様にしても、何んの感動も感情さへも湧かない事もある。

 店でも会社でも上手く行っている時には、その理由が何かは良く分かったりし難い事が多い。逆に上手く行かなくなって、倒産する様な事を経験すると、色んな事が見えて来たりして、多くを学ぶ事が出来る。だから借金は残るかも知れないが実力を付けるには良いチャンスだとも思える。
 そういう僕自身も失敗から多くを学んで来た様に思う。だから恐らく世間の失敗を経験しない成功者よりも、その実力は数段上と勝手に自負している。それを他人が「バカが何を言うか」と負け惜しみとか負け犬の遠吠えとか見るのだが、それでもその中の誰かが認めてくれなければ、僕はこのまま歴史上から消えてしまい、自分の本にしろ、このブログにしろ自分の望む後世の誰かさんに伝えられる事が出来ないことになる。

 もしかしてバラバラになって廃墟の様になって残る事もあるかも知れない。そんな廃墟の様になった姿を見る事があったら、元の姿をちょっとでも想像してもらえるとありがたいな。
 


2010年4月11日日曜日

未来の主役達

 「おっと、ゴメン。後ろのおじさんと目が合っちゃったよ。」と言っていたかどうかは定かではない。





おい、鯉が見えたか?僕はこっちの鳩が・・・




行商のおばさんと小学生の三人娘

大宮(さいたま市)案内


 旧中山道の大宮宿があった場所は、JR大宮駅東口から100メートルそこらの所を通っている。だから現在ではオフィスビルや商業ビルが建ち並んで、旧街道の面影はほとんど見られない。
 そんな中に、古びた倉や瓦屋根の建物が残っていたのが最近取り壊されて、さら地になったのが上の写真である。どこの旧街道にも見られる様に、街道に面した間口が狭く、奥に長く延びる敷地で、ウナギの寝床と言われるさまが見て取れる。

 江戸初期の中山道は現在の旧道より東の方にある氷川神社の参道を通っていた。それを1628年に一の鳥居の所から新道を造り、現在の旧中山道の道筋になったという。
 恐らく宿場町を形成して行くのにさすがに参道では都合が悪かったのであろう。

 氷川神社には男体社、女体社、簸王子社が祀られていて、江戸時代には祭祀はそれぞれ東角井家、西角井家、岩井家の三社家が別々に行っていた。その結果、三家の間に本社争いが起こり、訴訟になったという。

 明治時代になり、鉄道が交通の主流になって来ると、大宮は鉄道交通の分岐点になり、国鉄の大宮工場も出来て、鉄道の街として発展して行った。

桜の向こうが一の鳥居



氷川神社



左下にあるのは東北新幹線の車輪




                   駅の構内にあるポスト

大宮公園を中心に桜(さいたま市)

小さな公園にもこんなに綺麗な桜が









ボート池







 

2010年4月10日土曜日

明治まで日本に馬車がなかった訳

 
 絵巻などには都で貴族が牛車に乗ったりしている所が出て来るが、古代、中世、近世を通して日本では馬車が使われなかった。

 福沢諭吉が咸臨丸でアメリカへ渡った時、馬車を初めて見て驚いたという内容の本を見た事があるが、ほとんどの人がそういう発想さえも抱かなかったのだろう。

 江戸時代には大八車というのがあって、荷物を運んだりはしたが、これも宿場の中だけで許可されていて、宿場間を行き来する事は禁じられていたという。
 恐らく武器とかを荷物に紛れ込ませて運ばれたりする危険を避ける目的があったのではないかと思われる。
 関所では「入り鉄砲に出女」を重点的に取り締まり、そして鎖国政策、更にはこうした車の使用制限、あるいは参勤交代などで外様大名などが反乱を起こしたりする財力を削いだり、有りとあらゆる事で規制や制度網を張り巡らせて、江戸を攻撃される事からの芽を摘む方策が行われた。

 その中の一つだったのが、この車の規制による陸上交通の発達の阻害であって、馬車の発展がなかったのも、日本特有の地理的な特性によるものやサスペンションバネの発明がなかったということ以上に、江戸幕府を様々な危険性から守る事を最優先に考える政策の一環によるものが大きかったと言えよう。

 平地では牛を使って重いものを曳いたり運ばせたりはしたようだが、牛が使えない様な山間部では、馬を使って材木を運ばせる事はしていた様である。

 陸上交通で重い荷物を大量に運ぶ事は不可能で、一頭の馬では米俵2俵がやっとである。つまり、馬を曳く人が1人と馬とが必要で、それで2俵なのに対し、高瀬舟の様なので運んだ場合、船頭1人で米俵が100~200俵も運ぶ事が出来たのだという。

 例えば水戸藩が食料などの物資を江戸の水戸屋敷まで運ぶにはどうしたかというと、茨城県水戸市とその北に隣接するひたちなか市との間を流れる那珂川を利用して、河口へと海の方へ向かい、それから涸沼川を遡って涸沼に入る。
 涸沼を舟で端の方まで行き、そこから陸上へ上がり、霞ヶ浦の側にある小川までは旧道を陸送した。小川は河岸として栄え、今でも倉のある旧道沿いの街並みが僅かに残っている。
 小川からは霞ヶ浦に入り、利根川と連絡する所まで行くと、それを遡り、茨城県境町と千葉県関宿町付近で枝分かれしている江戸川へと入り、それを下って江戸へと向かった。
 

鴨ネギ状態で借金して使いまくりの国

 専門家は煽るだけである。一つ・・・BSEに感染した牛肉を食べると多くの人が狂牛病になる。一つ・・・新型インフルエンザが強毒化して、以前のスペイン風邪の様に多くの死者が出る。一つ・・・子宮頚癌のワクチンを子供の頃に接種しないと将来癌になる恐れがある。

 それで狂牛病に感染した人はそんなに多く出たのだろうか。新型インフルエンザのワクチンは大量に余ってしまい、国は1000億円とかにも上る損失を被る恐れがあるとやら。そんなの始めの頃から普通のインフルエンザ程度の症状で、十代くらいの子供に多く罹るとか言われていて、何でそんなに買いこむ必要があったのか、謎だ。

 子宮頚癌にしても、一人4~5万円も掛かる。何でそんなに高いのか。早く打て、早くしろ、そうすれば一人でも将来その病に罹る人が減る。専門家は煽って、さらには「高額だから税金でやれ」とまで言う。

 それが終わったら次の病気のワクチンだ。何の癌だ、何の病気の予防だと次から次へと出て来るに違いない。この国は誰もが知る世界一の借金王国なのに、「もっとカネを使え、使え」と丸でカモにされている様である。
 多重債務者が食い物にされるのと似ていなくもない。カネがないのにどんどん無駄カネを使わされてしまう。

 薬が終わったら次は災害だ。200年に一度の災害に備えて、首都圏を未曾有の水害から守るのに数十兆円は掛かる。あるいは大地震から日本の心臓部の首都圏を守る必要があり、その対策費にも数十兆円掛かる。かたや富士山や浅間山の噴火対策もしなければならない。

 それらも大事な面はあるのだが、何でもかんでもと借金が膨らみ過ぎて財政破綻してしまえば、もはや総てがパーになってしまう。

2010年4月9日金曜日

相次ぐ天窓事故から見えて来るもの(学校はどうなっているのか)


 学校の屋上に写真の様な半球形状の天窓があり、そこに走って来た子供が足を乗せて踏み抜いてしまって、下まで落下して亡くなる事故が以前にあった。この場所でも、白く光っている丸くなったプラスティック部分に子供が乗ったりしているので、もしやと思って調べてみた所、天窓にはなっていなかった。

 今朝も、テレビで学校の校舎の屋上にある天窓から生徒が落ちたと流れていたニュースをチラッと見たが、一体学校の教師達は何をやっているのかと思ってしまう。
 学校の屋上に写真の様な形をした天窓がある校舎があって、それが全国にどの位の数があるのか知らないが、それは太陽の光を採り込むためにあって、材質はプラスティックで出来ている場合が多い様である。
 
 プラスティックは数十年前はコンクリートと同様に半永久的と考えられていたが、今日ではプラスティックのスキー靴の部品が壊れた事故とかで、プラスティックは劣化する事が一般的に知られるようになったし 、日常でもプラスティックの洗濯バサミは、時期が来ればほとんどが同時期くらいにボロボロに壊れ出す事は皆が経験している様に思う。

 だからプラスティックで作られた天窓は古くなれば劣化し、壊れやすくなる事はそれを作った業者も知っているし、教師も知っていなければならない事であろう。もし仮に知らなかったにせよ、屋上へ何らかの理由で生徒をあげた時に、屋上の柵とか天窓の危険性とか頭に思い描き、それへ注意を払う様にといった事前説明を十分にし、なおかつそこに乗ると壊れて下に落ちる危険性があると、注意書きをしたり、柵を巡らせる事が必要である。

 にも拘らず事故が相次ぐという事は、予測できるものを予測する知識も能力もない教師が結構いるという事か。さらには情報さえもまともに伝わらない教育の世界だという事なのだろうか。これは事故を起こした管理者一人の問題というよりも、教育界全体の問題として捉えるべきだと思われる。
 政治家のカネや国家予算や税の使い方とかはマスコミで良く報道されるので、その実態が国民に知らされる面が多い様に思うが、学校の中の様子はほとんど一部分しか放送や報道をされた事がないので、中々国民にその実態が分からないというのが実状だと言えよう。
 
 以前は、川でも池でも何でも柵をするみたいなのが一時あったが、危険な事には一切近づくなとか、リスクを一切取るなとかいった事ではなく、こうした場合にこういう危険やリスクがあると教えるのが年上の者や親や教師だと思うが、その能力さえも失われてしまったのであろうか。由々しき事態の一端を垣間見る思いがする。
 この国の制度疲労はハッキリ言ってどこから手を付けて良いのか分からない程酷い状態の様に思える時もしばしばある。
 ところがその対策は徹底されてはいないというか、どこにも手が付けられていないといった様相なのである。

2010年4月6日火曜日

日本の未来が見えるぜよ

 この国は遅かれ早かれ世界で最も悲惨な先進国として歴史に名を残す事になる可能性が高い。

 僕らが学生だった30年以上前に、あるクラスメートから「俺らが年金を貰う頃になったら、制度が崩壊してしまうかも知れないってよ」とか、他の友人からは「先生になるんだったら今しかないって、何年か先になると少子化で採用が減るから難しくなる」とか聞いていた。

 あれから30年以上も経つのだが、この国の人間は何一つ対策を立ててやって来なかった。つまり、何年も先の事など誰にとってもどうでも良い事であったのである。今の自分にとって必要な事をやるだけで、先の事は全く考えない、関心を持たない、知ったこっちゃない。そういう国になってしまっていたのだった。

 それにもう一つ、僕が聞いたのは、この国が世界の注目する実験国になると言う事である。それは、世界最高の高齢化でかつ少子化という紛れもない事実。そして資源がなく、輸出でも稼げなくなる。世界最高の借金を抱え、それは自国民からの借金だから、世界はどこも国も日本を助けようなんて思わない。
 企業は生き延びるために、当然この国を見限って本社や工場を海外に移転する様になる。そうなると若者は職を求めて、海外に働きに出て行かざるを得なくなる。国内に残るのは高齢者ばかりだ。

 こういう筋書きが予想される国が、今後どういう対策を立て、どういう実行を進め、それが上手く行くのかどこが失敗したのか、そういった事を他国はしっかり分析し、良かった所は取り入れ、悪かった所は真似しないようにし、良くも悪くも手本にしようとしている。

 こういう風に聞いたので、これまでの例で行くとこれから20年、30年と今言った様な筋書きで進んで行くので、それに対して我々は何らかの手を打たざるを得なくなって来るのである。

 では、この国では何らかの対処をしている人が一人でもいるか。残念ながら相変わらず、30年前と同じ様に目先のこと以外にはほとんど関心を持っていないのが現実と言ったところである。

 以上の事を読んでどう思いますか。余りにも悲観論過ぎるってきっと多くの人は思うんでしょうね。もっと楽観的になれ、希望を持て、何か言い事があるさ、日本人の底力は凄い、潜在能力は世界一だ、突破能力は宇宙一だ・・・。

 口では幾らでも威勢のいい事は言えるんですがね。言うのとやるのとでは大違いなんです。

 僕ですか?僕は何だかやる気が湧いてくるんですよ。簡単な事やっても世界各国は注目してくれないでしょう。やりがいがあると思うんですがねぇ。

 先ず、目先の利益でしか行動しない国民をどう教育したら良いかだ。こういう事を昔っから言うもんだから、良く「お前みたいなバカが考える事じゃないよ」とか言われたもんだ。
 だって誰も考えてないから、俺みたいなバカが考えるしかないんじゃないの。そう思ったりしている。

2010年4月3日土曜日

書店に並ぶ書籍の最近の傾向

 書店に行くと、幕末とか龍馬本のコーナーがあったりする。最近では品格本の種類は一時より下火になった感がある。
 品格がないと思っていた人が多かったと言う事なのだろうか。朝青龍も引退したし、この不景気で品格どころではないと言った所なのだろうか。

  <ちょっと日本人観を論じる>
 日本人は欧米人みたいに、正面切って物事をハッキリ言う事をあまりしない。例え怒っても、表面上は平静な振りをして後でとんでもないところでしっぺ返しをしたりする。
 その場で感情を表に出さない事を美徳としている様で、怒っていないかと言うとそうではなくて、後で何かの時に行動をおこすぞ、と言うのだから時限爆弾みたいだ。
 
 僕はどっちかと言うとその場で問題を解決し、後に引きずらない様にしたい方だから、ハッキリという方である。ところがその場では「良いよ、良いよ」と言いながら、全くそれが嘘で、恨まれたり、仕返しされたと思える様な事が思い起こすとあれもこれもそうかなあというのがある。

 欧米人の様に物事を荒げたりしない代わりに、嘘を言ったりズルをしたりする場合が多い様な気がする。

 その他書店で目に付くのが「うつ」関連の本だ。不景気で、悩んだりする人が増えているのだろうか。不景気といってもそれ程の酷さはない様に見えるが、それでもこの時とばかりに余剰社員を整理する様なリストラが行われたり、ローンを抱えた人が失業や給料の大幅削減で支払いが難しくなれば、大変な事になってしまい兼ねない訳だ。

 <ニーチェ本の超訳について>
 そんな中で注目したのが、少し前に出たドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」とか今売れているニーチェの超訳本というやつである。
 手にとってペラペラ部分的に読んでみたが、分かり易い。どこかのマスコミ批評で、原文の内容が正確ではない様な事が書かれていたが、これまでは直訳気味で日本語の内容が意味不明な翻訳本が結構あった。ニーチェの今までの翻訳がそうだと言うのではないが、翻訳者が原作者の書いている内容のレベルに達してなくて訳そうとするものだから、どうしても直訳的にならざるを得ず、時には頓珍漢で意味不明な日本語の翻訳になってしまう様な事もあったに違いない。

 それに比べれば、多少正確さには欠けても、大意が伝わる方が余程良いのであって、その大意が間違っていなければ、読者は学術書として読む訳ではないのだから、そっちの方がずっといい。
 

枝は折れても、散らない桜

 
 昨夜はまるで嵐の様な風が吹き荒れ、午前中まで続いた。気温は、昼頃までは南風で暖かく、20℃近かったが 、午後になってから北風に変わり、寒くなって10℃近くまで下がってしまった。

 春物に衣替えしたと思ったら、再び冬物を引っ張り出してきたり、また春物になったりとこの所のころころ変わる気温と天気には完全に辟易気味だ。

 H総理も日替わりの様に言う事が変わるが、この天気の変わり様はそれ以上だ。

 満開の少し手前といった桜の花びらは散ってしまったかと、近所にある木を見に行ったら、ほとんど花びらは散っていなかった。

 そこで一人のお花見をしていたら、通り掛かったオバチャンが
  「きれいだね」と話し掛けて来た。
  「昨日の台風の様な風でも、全然散ってないのね」と言ったら、
  「咲いたばかりだから」と返答をした。
 
 これって会話が成立してんのかなぁー、とか思った。
 

2010年4月2日金曜日

学力の中身を論じた事があったかなぁ?

 郵政民営化を元に戻して、ゆとり教育も元に戻して、・・・。色んなものが振り子のように右に行っては左に戻り、左に行ったら右に戻るを繰り返している様な感じがする。

 そんな事をしながら、少しは前進しているのだろうか。ゆとり教育の10年で学力が落ちたのだと言う。つまりゆとり教育の時間の間はただボーっとしていたり、ふざけて遊んでいたりで、表面上の学力が落ちたばかりか真の学力(考える力、論理的かつ科学的な物事の筋道の組み立て方、興味を持って意欲的に物事に取り組む事など)も身に付かったのだろうか。

 どこに問題があるのだろうか。生徒の尻をひっぱたく様な事をしなければ、学力は付かないのか。意欲的にさせる動機づけを身に付けさせる様な事は出来ないのだろうか。

 これまでの様に薄っぺらな表面上の学力を身に付けさせる事にどれ位のメリットが今の社会にあるのだろうか。

 勉強は基本的に自分で行うものである。教師とは、基本的な計算力や基本的な読書力・読解力、それに物の仕組み、あり方、論理的な筋道の立て方、科学的な物の見方、自分の意見とは異なる意見への対処の仕方など、そういった基本的な物を教えれば良いのであって、その後は自分で本を読めば済む事である。

 だから教科書は欧米の様に分厚くて、教師の助けを借りなくてもそのテーマが理解出来るように分かり易く書かれていれば、それを見て学習できる訳である。

 我々の生徒だった頃は、説教ばかりされていた記憶がある。あとは先生の外国旅行の話とか諸々の学習とは直接関係ない話だ。当然の様に説教とかお話が多い分、教科書は進まないので、途中で終って、後は自分で読んどいて下さいといった様なもんだ。
 話が面白いなら、大概教科書の勉強よりも面白いから、教科書は後で読んでも構わないと思った。でももう少し厚い教科書で丁寧に書いてあれば、教科の勉強なんてそれを読むので十分だろう。

 僕が授業に期待していたのは、その先生からしか聞く事が出来ない話や考え方とかで、教科書に書いてある学習内容なんてその次くらいの位置づけだった。まあ、年がら年中お説教されてうんざりした事もあったが。

 幼稚園の時にはお説教された事がなかったが、小学校に入ると、恐い男の先生がいて、今でも思い出すのは、給食の時間の前に手を洗って先生に見せるのが決まりだった。それで見せ行った所、もう一度洗い直す様に言われて、再び見て貰ってもダメで、もう一度洗いに行く様に言われた。そしてまた見せるとダメだと言う。
 他の生徒は既に給食を食べ始めている。僕一人だけが取り残されて仕舞っている。何回目か忘れたが、先生はこう切り出した「まだ分からないのか。爪がのびているんだ」と。爪の先が汚ないので、爪を切れと言われ、食べる時間が無くなっちゃうと焦る気持ちを覚えながら、切ったのを覚えている。

 今から思うと教師も生徒のためを思ってお説教をしてくれるとは思うのだが、人間だから時には感情的に不満や怒りをぶちまける事もあったのではないかと思う時もあった。
 中学の時には、授業の開始時間を過ぎても先生が現れなかったので、ボールペンか何かをドラムのスティックの様にして叩いていたら、いきなり先生が現れて、前の席にいて目に付き易かった僕を見付けて、「おい、お前」と指をさされ、そこから授業の半分ぐらいネチネチ怒られっぱなし。
 何でそこまで言われなくちゃならないのと、まいった。その先生はその時相当機嫌が悪かったのだろう。

 自分が学生だった頃に当て嵌めて考えると、近頃の先生が精神的に病を抱える事が多いと言うのが中々実感できない。学級崩壊みたいに、授業中席に着いていられない生徒が何人もいたりすると、悩んで休む様な先生も出て来る気はするのだが。

 また良くマスコミで言われるのが教師は忙しい、寝る暇もないほどとか。それは完璧にやろうとすれば、寝る暇もないだろうが、そんな先生が何人いると言うのだろうか。手を抜こうと思えば、これまた幾らでも抜けて、公立ならクビにもならない。そういう印象を持つのであるが、そうではなくこうなんだといった具体的な反論にこれまで出会った事がない。

 学力がどうのこうのとマスコミでは何十年と言い続けて来てはいるが、学力の中身を突き詰めて考えた人が果たしているのかどうかは疑問である。受験テクニックを教えるだけの様なのが果たして学力と言えるのかどうか、そこから考える必要があると思うのだが、中々そう思う人が出て来ない。

 でもこの国の良い所は、欧米の翻訳書が色々出ているので、自分で勉強しようと思えばし易い環境にはあると思う。学問をする場合の、色んな物事の考え方、取り組み方、基本的な姿勢などは、様々な古典で身に付ける事が出来る。

 国際的なテストの平均点で、学力が落ちたとか上がったとか騒いでいる様に見えるのだが、人口の多い中国と逆に少ない北欧などとどういう学力の比較をするのか知らないが、全部をひっくるめる様な比較をすれば、人口の多い方が点数は下がるだろうし、ごく一部で比較すれば人口の多い方が点数は上がるかも知れない。統計を見る場合にはそこまで見る必要がある。

 アンケートの取り方でも、「こういう様な事態になっているんですよ。酷いですよねー。さて、あなたはそれに賛成ですか、反対ですか?」と聞かれれば反対と答える人が多くなってしまうに違いない。そういう調査をする場合もあるので、ただ数字だけを取り出して比べれば良いといったものでもない。

 アンケートや統計は、データの取り方によってはどうにでも変わる場合が出て来るので、結構良い様に世論操作に使われる場合もあり、取り扱いには注意が必要である。