2009年10月24日土曜日

国債発行の限度額を探る


 最近、民主党に政権が代わって、組んだ来年度予算の概算要求が95兆円を超える額だというので、マスコミなどが大騒ぎしている。
 この額は自民党政権時に組んだ、今年度の当初予算額88.5兆円を大幅に増額している。そして税収が増えていればまだしも、景気の悪化で今年度のは40兆円を切ると言われている。
 差し引いた55兆円は国債発行という借金で穴埋めする事になる訳だが、この国債の累積赤字つまり国の借金は、2009年度末で607兆円になる。それに地方の借金が合わさると804兆円という額だ。その他財投の国債残高123兆円が加わると927兆円になる。
 これじゃあ、印刷局もお札や国債をじゃんじゃん刷らなければならず、忙しい訳だ。

 でも素朴な疑問として、収入もないのにただの印刷した紙をどんどん刷っちゃって良いもんなのだろうかと思ってしまう。いや、ただの紙ではない。国の信用紙幣だ。でもそんなに刷ったら、信用されなくなったりはしないのだろうか。
 
 例えば単純計算で、市中に出回るカネが倍になったら、カネの価値は半減するのだろうか。高度経済成長している時期ならそうなるかも知れないが、現在の様な経済の成熟した社会となっては、そう旨くは行かないのではないかと思う。
 貨幣への信用が失墜してしまい、国の将来性への失望が加わり、それでは済まなくなる可能性がある気がする。
 
 何でこうも、毎年のように借金が膨らみ続けて行かざるを得ないのかというと、たぶん世の中の価値観の第一位がカネで、そのカネでしか人々は動かず、付いては来ないからだと思う。だから人を纏めよう、従わせようとするにはカネをばら撒かねばならず、選挙に勝とう、人を付いて来させようとするとどうしても予算を付けざるを得なくなって、その結果、借金は雪だるま式に増えて行ってしまう。

 どこかの政治家が、言葉だけで人々を纏めて付いて来させようとしても、中々それは難しい。人々は、思想・心情・哲学で動くよりもカネによって動くからだ。そうした社会の価値観が出来上がってしまっている。だからその価値観を崩さない限り、根本的な解決策は見い出せないのではなかろうか。    (つづく)