2009年10月15日木曜日

「蜜柑」(芥川龍之介)の舞台(横須賀と横須賀線)その2




 彼らは一斉に手を挙げて、喉を高くそらせて一生懸命に喊声をほとばしらせた。その瞬間、窓から半身を乗り出していた娘が、「あの霜焼けの手をつとのばして、勢いよく左右に振ったと思うと、忽ち心を躍らすばかりの暖かな日の色に染まっている蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へぱらぱらと空から降って来た」

 主人公は一瞬のうちに総てを理解した。小娘はたぶんこれから奉公に行くのだろうが、わざわざ踏切まで見送りに来てくれた弟達に蜜柑を投げたのであろうと。

 彼はこの蜜柑に感動したのであった。弟たちは家を出る時に送って、さらに汽車を見送るために踏切まで来て列車が来るのを待っている。十三四の姉はその弟たちに、本人が食べるようにとでも親から渡された蜜柑を、全部弟たちに投げ与えてしまった。こういう子供の心に感動したのである。

 子供たちの心がこの投げられた「暖かな日の色に染まった蜜柑」に象徴されている。貧しくみすぼらしい生活の中でも、こうした純真な姉や弟を思う美しい気持ちがあり、主人公つまり作者は現在の自分の、雲に覆われた暗澹たる憂鬱な日々の中に、一瞬でも鮮やかな蜜柑色の太陽を垣間見た思いがしたのであった。

 彼は前の席に戻った小娘を、まるで別人を見るように注視した。そしてこの小説は「私はこの時はじめて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである」という文章で閉じられている。