「或る曇った冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下ろして、ぼんやり発車の笛を待っていた」
これは芥川龍之介の短編小説「蜜柑」の冒頭である。
主人公は作者自身である。勤務していた横須賀の海軍機関学校から鎌倉の下宿まで帰る途中での出来事が書かれている。
その後の文章も薄暗いプラットフォーム、どんよりと曇った冬空、主人公の言い様のない疲労と倦怠感、檻に入れられた犬が時折悲しそうに吠えているのが、まるで自分の心境を映す様だとか暗く沈んだ描写が綴られて行く。
そして発車の笛が鳴っていま汽車が動き出そうとする時、車掌の声をふり切って十三四の小娘が慌しく乗り込んでくる。彼の前に座ったその娘は、気持ち悪いくらい赤い皸だらけの頬をし、下品な顔だちで、服装も不潔でいかにも田舎者といった風で、三等の切符で二等に乗り込む愚鈍な所も腹立たしいとけちょんけちょんにけなしている。
さらに陰鬱な描写が続いた後、おそらく二つ目のトンネルに差しかかろうとする時、突如と小娘が動き出す。
彼女は立ち上がり、主人公の座っている側の窓を下ろして開けようとする。そして丁度トンネルに入ると同時に窓は開き、そこから煙がどっと入って来てハンカチを顔に当てる暇さえなく彼は顔面に浴びて、咽喉を害していたので息もつけない程咳き込んでしまう。
小娘はいっこうにお構いなく、窓から首を出してジッと汽車の進む方向を見やっている。彼は叱りつけてでも閉めさせようと思う所だったが、それより前に列車はトンネルからもう出ようとしていた。
そして場面は「枯草の山と山との間に挟まれた、或る貧しい町はずれの踏切に通りかかっ」た。近くには見すぼらしい藁や瓦屋根の家が建てこんでいて、踏切番のうす白い旗がおぼろげにうす暗い景色の中で揺れている。
主人公は䔥索とした踏切の柵の向こうに三人の男の子が目白押しに立ち並んでいるのを見た。 (つづく)