【日光杉並木】
日光の杉並木には例弊使街道と日光街道があり、こちらは前者の杉並木。例弊使とは朝廷の使いで、京の都からこの道を通って定期的に日光まで来たようだ。徳川家康の墓参りという所だろうか。
道は片側一車線の車道になっているが、交通量は非常に少ない。杉の大木が空を覆うように密集して高くそびえているが、枝が落ちたりすることもあるだろうから、管理は大変だと思う。
こちらは日光街道の杉並木。道は遊歩道になっている。
【足尾銅山】
外から見ると建物は廃墟のようだが、車の出入りがあるので一部が稼働しているのだろう。
山道を上がって行った途中にあった学校跡。大正7年には児童数が991人だったという。
崩れた石垣。
折れ曲がって反対方向に上って行く石段が。
上には広場になった学校の跡が。
崩れかけた石垣が残っている。
この川が渡良瀬川から利根川や江戸川へと続いている。
足尾の山並み。緑は増えて来ているようだが、当時は工場の煙突から出た煙によって、山は枯れてしまった。
足尾製錬株式会社足尾製錬所、古河機械金属株式会社足尾事業所とプレートにある。
使われてない古い橋で、立ち入り禁止と書かれている。隣に今使われている橋がある。
中々年代ものの橋だ。
この看板には次のような説明があった。
足尾製錬所が建てられたのが明治17年(1884)。鉱石を溶かす時に出る煙には亜硫酸ガスが含まれ、付近の草木を枯らした。
松木村では明治21年に桑の木が全滅し、翌年には養蚕を廃止した。
20町歩(約20ヘクタール)の農産物(大麦・小麦・大豆・小豆・ヒエ・キビ・大根・人参)は33年までに次々と無収穫となった。
明治25年までは40戸で270人だった人口が、33年には30戸で174人になり、34年には1戸を残して全員松木を去って廃村となったという。
この煙害問題はその後も50年以上解決されなかった。が、昭和31年(1956)に自熔製錬法が採用されて硫酸工場ができ、煙の中から濃硫酸を採るようになったので、やっと根源を断つことができた。
下の方に砂防ダムが見える。木の無い山肌では植林でもしているのか、あるいは土砂が崩れるのを防ぐ工事でもしているのか、何かやってるようだった。
まん中あたりに製錬所の煙突が見える。