M党の意思決定の仕組みを見て行くと、そこには日本の今置かれている教育の欠点が見えて来そうである。
普通は意見を集約したり、一つの方向へ議論を纏めて行こうとすれば、かんかん諤々の話し合いをして、そこで長所や欠点を総て取り上げて、それらを十分に吟味して、「この方向で行こう」、「この考えで法律を作って行こう」となる。
三人寄れば文殊の知恵と言うが、一人や二人で考えた時には、ある一面だけに偏ったり、何かが抜け落ちたりと完全な物には中々ならない場合がある。だから色んな立場の人を入れて議論する事で、それらの立場に配慮した議論が出来、その中から一つの意見が纏まって来る。
しかし一人で考えたのでは、そういう事は無理な話で、聖徳太子の様な人であっても、中々出来ない事が多いと思われる。
所がM党の公約や方向性の決定の仕方を見ていると、どうもある人が単独で公約を出して来て、それを誰も吟味しないでそのままマニフェストに載せてしまい、そして後で国民の間に議論が噴出して、変更せざるを得なくなるというパターンが多々見られる。まるでマスコミや国民が第二の議会みたいになっている。
これの象徴的なのがH総理だ。
何故こういう事が起こるのかと言うと、どうもそれまでの各人が歩んで来た人生において、意見の纏め方、議論の集約の仕方を、学ぶ場がなかった事に原因があるのではないだろうかと思える。家族の中でも、学校でも、社会でも、そういう場がこの国にはほとんどないのである。それが党や内閣にも表れて来ているのではないだろうか。
漫才の世界で良く使われていて、今では一般的になった言葉に「突っ込み」がある。相方がボケた発言をすると、「それは違う、こうだろう」と突っ込みを入れられる。そして、「なるほど、そういう考え方もあるんやなー」となる。
エリートでない連中の間では、良くあるこういったやり取りが、得てして受験エリートの間には中々ない。何故だろうか。学校教育が、先生の言った事に疑問を指し挟む様にはなっていないからである。疑問を挟んだら、受験に受からない。だから、受験難関校の教師は「疑問を持つな!ただひたすら信じ込んで覚えろ」と言い、生徒はそう教え込まれて育つ訳である。
西欧の学問は元々は「疑問を持て」という発想から始まっている。例えば「人間は考える葦である」(パスカル)、「我、考える故に我あり」(デカルト)といったものが出発点、近代文明の原点とも言える。
所が日本の場合は、そもそも西洋の近代文明を取り入れる事が出発点であり、それが教育でもあり、学問そのものであった。
だから教師のいう事に意見を行ったりすると、「オレの言う事を批判した」、「ケチを付けた」とか、そういった事になり兼ねないのだ。「なるほど良くそこに気が付いたね、先生には分からなかったよ」という教師は恐らく少ないに違いない。疑問を持たずに、ただひたすら欧米に追い付け追い越せといった風潮がその底辺には流れていた。
M党の場合も、誰かが支持者からの考えを受け入れる形で、議員がある公約を提案すると、後は誰も意見を言う状況にはなく、そのまま世間にお披露目になってしまうのだろう。そうして後になって、マスコミや国民を交えての議論が沸騰といった状態になって行く。
本当はその前に、「党の中で、ある程度は議論してよ」と言いたい所なのだが、やはりそれに意見を言ったら、「あいつはオレを批判した、敵だ」といった感情が渦巻いてしまいどうにもならなくなってしまうのかも知れないと思われる。
H総理の普天間基地に関しての一連の報道を見聞きするにつけ、何かほとんど総理の一人相撲で、他の誰も何か言ったり、あるいは話し合ったりしている様子は伺えない。
ほとんど相談相手もなく、自分の思いを最初から喋って、何とかつじつまを合わせようとか、期待を持たせようとか、孤軍奮闘している。
国の方針なんてもんじゃない。自分の思いをただ喋っているだけである。そしてその人物が総理であるというだけである。
つまり、「私は米軍の編成や仕組みは良く分かりませんが、抑止力に海兵隊は必要ない様に思いますので、普天間基地はどいてもらえませんでしょうか。選挙前にそう言っちゃったものですから」という事だ。
中々に正直と言えば、失礼だがバカが付くほどに正直で分かり易い。悪い面ばかりではなく、国民にとっての利点は何かを考えてみよう。最悪なのは、悪い部分は隠してしまって、良い面ばかりを見せようとする人、所謂粉飾決算をして、表に出た時にはもう手の打ちようもない、といった状態になる事だ。
H総理は少なくともこれには当たらない。H内閣はほぼオープンだ。これが国民にとって最大の利点である。国民に国家の事情が良く分かる。だから、国民がもし医者であったら、この内閣の、あるいはこの国の病状が、あるいは健康状態が良く見える事になる訳である。そうすれば、良い点は伸ばして行き、悪い病気の部分は治療する事が可能になる。
この点はH内閣の最大の長所と言えるのではなかろうか。
第二は、この程度の総理なら、自分にだって出来ると、多くの国民に思わせた、つまり自信を与えた事になり、この不況の時期に落ち込む人の多い中で、一面で功績をあげたとは言えまいか。
最もこんな首相じゃ、経済や外交に期待が持てないと思った人もいたと考えると功罪相半ばするって所でしょうか。