2010年5月31日月曜日

近郊農地の田植え


「田一枚植て立去る柳かな」(芭蕉)

  これだけの作業するのも、結構大変ですよねぇ。かなりの苗を植えています。



テレビで放送していたハーバード大の授業と今どきの東大生を取材した番組を見て

 テレビでハーバード大学の授業風景を流していた。教授が教室の壁側にいて、それを回りの生徒が半円形に取り囲む様な形で、席は後ろの方へ行くほどに高くなって行く造りの部屋だった。
 授業は、多種の人種が集まるアメリカ特有の問題を取り上げていたが、教授がテーマを投げかける形で、生徒はそれに答える様に自分の意見を述べ、その事について、教授は「彼はこう言ったが、その点は他に意見のある人はいないか」と生徒に問い掛けて行くパターンだった。皆、それぞれちゃんとした意見を述べていた。

 その後、他のチャンネルで、東大生の日常を取材していた番組を見た。そしたら以前から多少は思っていたが、今更のようにその考え方には驚く点があった。

 彼らはほとんど就職した場合の収入のことしか話さなかったし、それしか関心がない様に見えたのだ。
 これからの官僚は天下りが出来なくなるから、民間企業に行くしかないとか、大企業、弁護士、医者、外資系などと給料の高い所ばかりに関心を示している。
 その上、東大生はチヤホヤされるのが好きだから、事業仕分けみたいに追求されると辛いみたいな事を言う。

 カネのためではなく、世の中の役に立つ仕事をしたいと思うようなのは、もう古いのか。彼らは高収入な、その親の意向を受けて、授業料の高い塾や予備校に通い、幼いころから試験勉強ばかりさせられて来たいわゆる受験エリートである。

 受験のための人間作りである。つまりは受験のスペシャリストという事だ。野球エリートやゴルフエリートと同様にそのほとんどが英才教育を受けて来た。
 それは取りも直さず、高額の教育投資をして、将来のリターンを目論む以外の何者でもない。ブログで女子プロゴルファーが言ったそのものだ。
 だから投資した資金の何倍を取り戻して獲得出来るかに最も関心があるというのが納得できる。

 じゃあそういう人達が、いわゆるカネ儲けのために仕事に就いた人が、カネ儲け第一優先に仕事をした時、世の中はそして人々は、国家全体は、より良くなって行くのだろうか。

 カネ儲け第一主義の医者、弁護士、官僚、研究者、政治家などで構成された国家だ。

 また一流の野球選手が、「我々は野球の事しか知りませんから」と自ら野球バカ的な発言をしたりする。小さい頃から野球づけの毎日を送って来た訳だから、もっともな事である。
 では東大生が、「自分達は小さい頃から試験勉強しかしてこなかったので、試験バカですからそれ以外の事はほとんど分かりません」と言うだろうか。
 まだ聞いた事はないが、そういう事も十分に考えられるのではないだろうか。

 野球やゴルフだったら、それがすぐに仕事に直結する。所が試験勉強、そして受験エリートの場合は即、医者や民間の企業人や政治家や研究者などになって、それが直結するかというと、そうならない場合が多いように思う。
 敢えて言うと、直結し易いと思われるのが、塾や予備校の教師だ、教わる側と教える側の違いはあるが。

 そして果たして、カネ儲けのために研究者になって、良い研究成果があげられるのだろうか。立派な医師になれるのだろうか。技術立国を作り上げる基礎を築いたかつての創業者の様になれるのだろうか。
 「どこか違う」って気がするのだが。

 こんな事を言うオレが現実的じゃないってことなのか。 
 
 しかし研究者でも、医者でも、弁護士や裁判官でも、企業家でも、教師でも、他の職業でも、いまの試験勉強以外にもっと大事な学ぶべきものがある様な気がしてならない。

2010年5月30日日曜日

楽観主義者は総ての被害を拡大させるかも

 この国の楽観主義者という人々は、僕のことを悲観的に考え過ぎると批判めいた事をしばしば言う。
 最悪の事を考えて、そうなった時にはこういう対策を取るようにしようと考えるのは、人の上に立つ人であれば、そうする責任があると言える。
 しかし、そういう事を考える事自体も悲観的で好ましくないと思っている様なのである。

 戦争の「せ」の字も考えるな、考えると戦争を起こす方向へと行ってしまう恐れがあるから。
 悪い事は考えるな、考えただけでそっちの方向へ行ってしまいかねないから。良い事だけをイメージしてそうなる事を一身に念じろ、そうすれば思いは叶う。
 景気が悪くなる事を考えるな、思っただけでも景気は悪くなる。
 良い事、楽しい事だけを考えろ、そうすれば総てが上手く行く。

 信じるものは救われる。悪い人でも敵国でも信じてやれ、信じて好きになれば攻撃はして来ない。伝染病にしたって、大丈夫と思えば、向こうから去って行く。

 こういう神がかり的な思想を広めている人がいるらしい。どうも宇宙人と同類の思考回路と思えてならない。具体性が全く感じられない。

 しかしこういう考えは、合理的でも、科学的でもないし、何かが起きた時には、その被害は大きく広がり、多数の犠牲者が出る事が予想される。

 危機管理の事なんか考えて生きていても、人生楽しくないじゃないか。楽しく好きな事をやって、病気になったってそれはそれで良いじゃないか。
 車に気を付けて道を歩いたって詰まらないじゃないか。交通事故に遭う確率は高くないのだから、携帯見ながら音楽聴きながら歩いて、もし事故にあって死んでもそれはそれで良いじゃないか。

 楽しい事ばかり考えて、成り行きに任せて生きて行こうぜ。

 宮崎での口蹄疫にしても、49頭だかの種牛の処分は待ってくれとか知事が言ったりして、結局はその中から口蹄疫が発症して処分に納得したとか。
 また処分が決まった豚でも埋める場所が確保されていないとかで、発症したまま、そのままになっていたりで、鳥や小動物がウイルスを遠くに運んだりしたらどうするのだろうかと心配するが、それさえも悲観論はけしからんと言うのだろうか。

 その他にも、補償金の額が決まっていないので、殺処分には応じられないとか、何もかも後手後手で、被害がさらに拡大してしまい兼ねない。

 相手のやることなす事に、反対、反対と言って来ただけで、後は何も決断しない、出来ない、ただそれだけの人達だったのか。

 僕の考えは、ウイルスの専門家でもないし、地元にいて事態を掌握しているという状態でもないので、それ程自信を持って言える訳ではないが、自衛隊を動員して出来るだけ早く残った牛や豚を埋めて、ウイルスの広がりを封じ込めるべきだと思う。
 埋める土地の了承が得られないから、そのままいつまでも放置しておけるものではないと思う。補償額の件は後で行う様にするしかないだろう。

 地震でや戦火で、あちこちが火事になって、消防車が間に合わず、類焼を避けるためにまだ燃えていない家を取り壊さざるを得なくなった場合、補償金云々を決めてから取り壊しに応じるなどと言ってはいられないのと同じ様な事だと思う。
 

2010年5月26日水曜日

日本のマスコミが報道自粛をする事例

 日本のマスコミの中には、

         口蹄疫・・・風評被害を恐れる。

         哨戒艦沈没・・・戦争を煽る事を恐れる。

         国家破綻・・・景気が悪化する事を恐れる。

 こうした恐れがあるとして、初期段階の報道を自粛する傾向が見られる。報道する事によって事態を悪化させる恐れがあると思っている節がある。

 しかし敢えて言いたいのだが、事実関係を最大限の努力を払って調査する事は、報道するしないに拘わらずにしなければならない。
 もし自粛する方が適当だと判断したなら、取材をした後の時点でそうすれば良いのである。
 一番悪いのは、取材調査の活動に入らないで、その手前で自粛してしまう事だ。
 これでは、自粛すべき物なのか、あるいは自粛すべきではない物なのかが、判断が出来ない事がほとんどだと思う。
 
 つまりは、判断放棄になってしまうのである。
 そうするとマスコミの本来持つ機能が失われると思うのだが・・・


 例に挙げた「口蹄疫」で言えば、十分な取材をしていれば、自粛すべきか否かの判断が違う結果になっていた可能性があるのだ。
 毎日の様にH総理の言動に振り回されてか、売り上げになると判断してなのか、あればっかりの報道だった。「5月末と言ったら5月末です」とか「腹案がある」とか毎日毎日、あの様な人を必要以上に相手にしてたら、他に置き去りにされた重要な取材対象は、深刻な事態がさらに悪化してしまう事に気付くべきだった。

 また公開された魚雷の残骸にしても、100人以上も乗った大きな哨戒艦を真っ二つにした割りには、魚雷の外側の覆っていた鉄製の部分は飛び散っているものの、前の部分や後ろのスクリューや軸はほとんど壊れていない。
 だからあれが哨戒艦を沈没させた魚雷かどうかは疑問が残る所だ。

 それから国の財政破綻にしても、ようやく正面から論じる様になって来たが、欧米では財政赤字問題の他に、投機資金が一辺に動く事によって、実体経済が大きく影響を受ける事や空売りの問題とか、突っ込んだ話になっている。
 日本もどこかの組織の御用経済評論家さんばかりでなく、世界レベルの経済学者みたいな人が出て来て欲しいものである。
 

経営難に陥る地方の自治体病院

 都道府県や市町村の運営する自治体病院は7割以上が赤字経営だが、財政が厳しい地方の自治体では病院を支援する予算に余力がないという。

 地方の自治体病院は、出来るだけ立派な施設や器具を揃えて、田舎に来てくれる医者を増やそうとして、多大な借金を抱え込んだ所もある。
 都会に負けない様な立派な箱物や施設が整えれば、若者や医者は田舎に来てくれるに違いないと、目いっぱいの借金をし、音楽ホールやレジャー施設を造ったのは良いが、借金が大きすぎて今度は返せない事態に陥ったり、しそうになっている所があちこちに出て来た。

 貸す方にしても、返すのが難しそうな所だと思えば、貸し倒れを頭に入れて高めの利息を設定するから、返す方にしては一層苦しくなる。

 病院にしても、建設に際して地元の業者を使って地域の活性化を図ろうとするから、どうしてもコストが割高になってしまい、総事業費は分不相応な金額ものになってしまう。
 結果的に、その返済を医師たちが稼ぎださなければならない事になる。そうなれば患者を増やす必要に迫られるし、1人当たりの単価を上げなければならなくなる。

 医者の抱える負担が大きくなるという事だ。それが理由で、余り必要でもない薬を年老いた患者にどんどん出す医師も出て来るかも知れない。余り必要性がないのに、費用の高い検査を受けさせる様な事も起こり得るかも知れない。
 そういうノルマの様なものを課せられれば、医師にも不満が出て来て、辞めて行く者だって出て来るだろう。

 つまり人を引き付けるのにカネで呼ぼう、物で呼ぼうとしているという事になる。カネもないのに、借金してまで物至上主義に頼る。皆でそれぞれが自分で自分の首を絞める様な事をしてしまっているとしか思えない。
 多重債務者のど壺に嵌ってしまったとしか考えられない。カネが無いなら、無いなりに考えて行動するのが普通だと思う。
 例えば心からのもてなしをしたり、よそからやって来た人々を迎えてくれる人々やその土地が、人間味の温かい所で、また来たくなったり、あるいは住んでみたくなる様な所だと思わせるのが良いと思う。しかし実際には中々そうはならない、そうなれない何かの理由があるのだろうか。

 人々は何でも、物、物、物で洗脳されてしまっている。ハードの充実だけではなく、ソフトの面ももっと充実させようとすべきだと思う。

 物がどんどん蔓延って、溢れて行っても、反比例して心の内面が益々貧しくなって行けば、社会は崩壊の方向へと進むのだと思う。

 これからは物や外見ばかりではなく、内面も充実させて行くべきだと思う。またそうならなければ、薄っぺらで単純な内面を持つ人達が、高性能の危険なツールを持つ事にもなって仕舞い兼ねないのだから。
                                                                                              (テレビを見て)

2010年5月24日月曜日

「鉄道ふれあいフェア」でJR大宮車両センターへ

 工場見学のつもりで行ったのですが、土曜日で家族連れやら鉄道ファンでいっぱいだった。 ここの車両センターからもう少し歩くと鉄道博物館がある。この博物館も土・日には7000人/日とかの入館者があるという。



モーターの付いた台車の様だ。


工場内を移動する車両に乗る順番待ちの人々


北斗星などの電気機関車


 カシオペアに乗って旅行がしてみたくなった。夜汽車もいいね。「ありやけのうすら灯りは 硝子戸に指のあとつめたく ほの白みゆく山の端は みづがねのごとくにしめやかなれども・・・」なんて感じでさ。
 汽車の窓から、刻々と移り行く夜明けの時間の流れとともに変化する風景と、車窓の移り変わる景色を合わせて眺めるなんて最高!ついでに自分の人生の移り変わりもオーバーラップして重ね合わせちゃったりして。





 

 鉄道博物館(さいたま市)について・・・今年のゴールデンウィーク期間中の4月29日~5月9日に訪れたのは、約4万6200人で、前年に比べて22%減っている。開館3年目を迎えて、開業効果も薄れて来たようだ、との見方もある。


2010年5月23日日曜日

足立区立郷土博物館へと葛西用水の遊歩道を行く

 

 
 博物館はJR常磐線の亀有駅で降りて、北へと2km以上は歩いた道沿いにある。散歩がてらに葛西用水の遊歩道を歩いた。  それにしても、この常磐線の駅が中々どうして分かり難い。常磐線は上野から水戸を経て仙台まで行っているが、上野駅から出ている常磐線に乗ると、どの電車も北千住駅と松戸駅間にある綾瀬、亀有、金町の各駅には停まらない。
 この3駅に停まるのは地下鉄千代田線の電車である。そして北千住駅から取手駅までの間はこの地下鉄千代田線電車の車両が常磐線の各駅停車を兼ねているというのだ。
 そんなトリックは時刻表を見ただけでは解けないだろう。



 という訳で、葛西用水の遊歩道を歩いていると、ムムッ、日時計があった。その時、丁度学校のチャイムが鳴ったので、腕時計を見たら3時10分だった。
 そして日時計を見ると、な、な、何と3時10分を正確に指しているではないか。日時計侮るべからず。



 途中で大きな団地が目に付きました。足立区はこうした大きな団地が多い様です。


 また少し用水沿いを行きますと、今度は流れの中にサギのような鳥の作り物が置かれていました。その先には、亀の作り物が石の上に見えます。へーっと思って、橋の上から覗いてみたら、えっ、首が動いた。そう、本物だったのです。




 そうこうして歩いている内にやっと博物館に着きました。塀際に置いてある石仏を見てから、裏庭の案内があったので、そちらへ行った。


 蛇が彫られた珍しい道しるべがあった。良く見ると、頭部の下辺りが膨らんでいて、コブラの様だった。











 緑の少ない住宅街の中にあって、ここの空間だけは草木の香りでむせかえる様な別世界だった。




 東京の足立区の辺りは、海水が川の相当上流の方まで上がって来て、いわゆる汽水の状態であったために農業用水としては使えず、上流からの水を溜池に貯めて利用していたが、江戸時代の中期頃になると上流からの堆積土が増えて機能を果たさなくなって来た。そこで利根川から見沼代用水や葛西用水をを引いて来る様になった。

 

 地図を見ると黄緑色の部分が多い。7~8割が水田である。



大正時代頃か



昭和30年代の団地の部屋。どこの博物館でも良く見かける。






 


2010年5月18日火曜日

赤坂プリンスが来年閉館し、解体へ



 赤坂プリンスホテルが来年の3月で営業を終わり、高層の新館が取り壊されるというのには正直言って驚いた。

 記者会見では、その理由として「外資系ホテルの進出による稼働率の落ち込みや建物施設の老朽化」が言われた様だが、1983年3月の開業で来年で丸28年になる。恐らく大規模改修には相当な費用が掛かるのだろう。その後さらに宿泊料金を下げる事になると、ちょっと難しくなって来る。だから「取り壊して、新しい計画を立てた方が」となったのだろうと想像される。

 建物は40階建てで、高さが約139mといった高層建築である。もっと古い霞が関ビルとか京王プラザホテルとか他にもたくさん高層建築はあるだろう。
 つまりその言葉をそのまま解釈すれば、日本の高層ビルは、30年も経たない内に老朽化し、大規模改修か取り壊しかをしなければならないという事になるのか。
 その様な造り方を最初からしているという事なのだろうか。ニューヨークのエンパイアステートビル(地上102階、ビル本体の高さ381m)に行った事があるけど、建てられたのは80年も前だ。

 安普請という言葉があるが、建築費を安くして造れば、それなりの物しか出来ないという事なのか。その辺の詳しい事情が分からない。

 どの位の建築費が掛かり、どれ位の収益があったのか、そしてペイしたのか知りたいと思った。
 ちょっと調べてみたら、客室が761室で1454人の収容とあった。一室3万円で計算して見ると、3×761×365×28×0.8=1866億5808万円になる。
 これから土地の購入費、建築工事などの総事業費、人件費・光熱費・修繕費などの維持費、税金、解体費用など掛かった費用を引いた残りが最終利益となる。

 解体をするにしても、良くアメリカで行われる爆破による解体は無理だし、上から壊して行くか、下から壊す方法もある様だが、・・・

                <  ※  >

 鉄筋コンクリートの構造物は、コンクリートに海砂を使ってあったりすると、アルカリ骨髄反応を起こして鉄筋が腐り易くなるというが、それ以外でもコンクリートのひび割れから雨水が浸入して鉄筋が腐食したり、その他配管の老化やコンクリートそのものの劣化などが考えられる。

 少し前に、茨城県高萩市の県立高萩高校で、生徒が校舎2階のコンクリートの手摺に持たれていた所、突然手摺が崩落し、手摺もろとも落下して怪我をした事故があった。
 この校舎は36年経っていて、昨年の10~12月に定期点検をしていた。それで表面的には問題はなく見えたが、この建築方法はプレキャスト工法といって、前もって造られたコンクリートの部品を現場で組み建てるもので、部品を接合するボルトが腐っていたのだ。
 コンクリート自体は大丈夫だったが、鉄製のボルトが雨水や空気で酸化が進み、腐ってしまったのが原因であった。

2010年5月11日火曜日

M党から見えて来る日本の教育の欠点とその功罪

 M党の意思決定の仕組みを見て行くと、そこには日本の今置かれている教育の欠点が見えて来そうである。

 普通は意見を集約したり、一つの方向へ議論を纏めて行こうとすれば、かんかん諤々の話し合いをして、そこで長所や欠点を総て取り上げて、それらを十分に吟味して、「この方向で行こう」、「この考えで法律を作って行こう」となる。

 三人寄れば文殊の知恵と言うが、一人や二人で考えた時には、ある一面だけに偏ったり、何かが抜け落ちたりと完全な物には中々ならない場合がある。だから色んな立場の人を入れて議論する事で、それらの立場に配慮した議論が出来、その中から一つの意見が纏まって来る。
 しかし一人で考えたのでは、そういう事は無理な話で、聖徳太子の様な人であっても、中々出来ない事が多いと思われる。

 所がM党の公約や方向性の決定の仕方を見ていると、どうもある人が単独で公約を出して来て、それを誰も吟味しないでそのままマニフェストに載せてしまい、そして後で国民の間に議論が噴出して、変更せざるを得なくなるというパターンが多々見られる。まるでマスコミや国民が第二の議会みたいになっている。
 これの象徴的なのがH総理だ。

 何故こういう事が起こるのかと言うと、どうもそれまでの各人が歩んで来た人生において、意見の纏め方、議論の集約の仕方を、学ぶ場がなかった事に原因があるのではないだろうかと思える。家族の中でも、学校でも、社会でも、そういう場がこの国にはほとんどないのである。それが党や内閣にも表れて来ているのではないだろうか。

 漫才の世界で良く使われていて、今では一般的になった言葉に「突っ込み」がある。相方がボケた発言をすると、「それは違う、こうだろう」と突っ込みを入れられる。そして、「なるほど、そういう考え方もあるんやなー」となる。

 エリートでない連中の間では、良くあるこういったやり取りが、得てして受験エリートの間には中々ない。何故だろうか。学校教育が、先生の言った事に疑問を指し挟む様にはなっていないからである。疑問を挟んだら、受験に受からない。だから、受験難関校の教師は「疑問を持つな!ただひたすら信じ込んで覚えろ」と言い、生徒はそう教え込まれて育つ訳である。

 西欧の学問は元々は「疑問を持て」という発想から始まっている。例えば「人間は考える葦である」(パスカル)、「我、考える故に我あり」(デカルト)といったものが出発点、近代文明の原点とも言える。
 所が日本の場合は、そもそも西洋の近代文明を取り入れる事が出発点であり、それが教育でもあり、学問そのものであった。

 だから教師のいう事に意見を行ったりすると、「オレの言う事を批判した」、「ケチを付けた」とか、そういった事になり兼ねないのだ。「なるほど良くそこに気が付いたね、先生には分からなかったよ」という教師は恐らく少ないに違いない。疑問を持たずに、ただひたすら欧米に追い付け追い越せといった風潮がその底辺には流れていた。

 M党の場合も、誰かが支持者からの考えを受け入れる形で、議員がある公約を提案すると、後は誰も意見を言う状況にはなく、そのまま世間にお披露目になってしまうのだろう。そうして後になって、マスコミや国民を交えての議論が沸騰といった状態になって行く。

 本当はその前に、「党の中で、ある程度は議論してよ」と言いたい所なのだが、やはりそれに意見を言ったら、「あいつはオレを批判した、敵だ」といった感情が渦巻いてしまいどうにもならなくなってしまうのかも知れないと思われる。

 H総理の普天間基地に関しての一連の報道を見聞きするにつけ、何かほとんど総理の一人相撲で、他の誰も何か言ったり、あるいは話し合ったりしている様子は伺えない。
 ほとんど相談相手もなく、自分の思いを最初から喋って、何とかつじつまを合わせようとか、期待を持たせようとか、孤軍奮闘している。

 国の方針なんてもんじゃない。自分の思いをただ喋っているだけである。そしてその人物が総理であるというだけである。
 つまり、「私は米軍の編成や仕組みは良く分かりませんが、抑止力に海兵隊は必要ない様に思いますので、普天間基地はどいてもらえませんでしょうか。選挙前にそう言っちゃったものですから」という事だ。

 中々に正直と言えば、失礼だがバカが付くほどに正直で分かり易い。悪い面ばかりではなく、国民にとっての利点は何かを考えてみよう。最悪なのは、悪い部分は隠してしまって、良い面ばかりを見せようとする人、所謂粉飾決算をして、表に出た時にはもう手の打ちようもない、といった状態になる事だ。
 H総理は少なくともこれには当たらない。H内閣はほぼオープンだ。これが国民にとって最大の利点である。国民に国家の事情が良く分かる。だから、国民がもし医者であったら、この内閣の、あるいはこの国の病状が、あるいは健康状態が良く見える事になる訳である。そうすれば、良い点は伸ばして行き、悪い病気の部分は治療する事が可能になる。
 この点はH内閣の最大の長所と言えるのではなかろうか。
 
 第二は、この程度の総理なら、自分にだって出来ると、多くの国民に思わせた、つまり自信を与えた事になり、この不況の時期に落ち込む人の多い中で、一面で功績をあげたとは言えまいか。
 最もこんな首相じゃ、経済や外交に期待が持てないと思った人もいたと考えると功罪相半ばするって所でしょうか。 

2010年5月9日日曜日

直角に曲がった川


 奥の方から流れて来た川は、目の前の崖の所でほぼ直角に曲がっている。ほとんど真っ直ぐに流れる都会の川ばかりを見ていると、これだけ曲がった大きな川を見るだけでもチョット感動する。

道になった川


 橋が架かっていて、その下を道が通っている。道は所々で大きくくねっていて、以前は水路だった事が分かる。
 マンホールが見えるが、道の下は暗渠になった水路が通っているのだろう。

路地の水溜り


 弱い雨が降ったり止んだりしていた。水溜まりのある狭い路地裏に入ると一瞬世界が広がった気がした。

普天間問題と安全保障(海兵隊と抑止力について)

 今は東西冷戦時代が終わって、それまでの軍事戦略が構造変化をしつつある現状だと言える。

 米・中・ソの政治トップ層同士の関係から判断すれば、互いの対立が昂じて戦争に陥る様な状態を招く可能性は極めて低いと思われる。

 しかしアジア諸国の一部などでも見られる様に、一番考えられ易い危険なパターンとしては軍事政権によるクーデターである。軍部の力が大きくなると、文民統制が効かなくなる事が起こり得て、軍部が政治家の言う事を聞かないで独自の行動を取ってしまう事態が考えられる。

 中国の軍事予算の増強やそれが使われる所の不透明さは、不安を生じる点である。つまり、政治のトップが指導力を持って予算をし切っているのか、それとも軍部の圧力に押されてしまっているのかと言う事でもある。

 軍部の権限が強まって、軍事行動を伴う様になると、自国の領土の外の地域を本来は自分達の物だったと宣言して占領しようとする。その時に軍事衝突が最も起こり易い状態が生まれて来る。
 そしてあっちが先に撃って来た、いやそっちだと言って交戦が広がる事になってしまい兼ねない。

 その領海を接している国が日本であれば、領土を占領されたと思った時に、自衛隊を出動させる事になろう。そうした中で、事態が深刻さを増せば軍事衝突が起こり得る。仮にそうなったときには、米軍の出動も起こる事態が考えられ、その時、いま話題になっている海兵隊が必要になって来る場合もあるのだと思う。

 政治家自身を考えるならば、戦争なんかになって経済が混乱したら大変な事になるから、戦争は避けるだろうと想像できても、軍部は経済の面から考える事は余りしないだろうから、経済混乱が軍事行動の抑止に直接繋がるとは考えない方が良いのかも知れない。

 一方、北朝鮮の方も不安定な材料が依然として燻っている。核開発の進展やトップの抑えの効かなくなった時の軍部の独自行動が懸念材料としてはある。
 100発以上のノドンミサイルが、日本国土に向けられているといった事実は、これに核弾頭を搭載すれば、・・・
 また核開発に伴って予測される核拡散は、裏ルートでテロリストの手に渡る可能性も出て来るので、核による大都市へのテロ攻撃も現実味を帯びて来るような事態を招く事が考えられる。


 昨今の龍馬ブーム、幕末ブームに照らして考えてみると、今の総理が徳川慶喜で、勝海舟が幹事長といったところだろうか。もしも米軍がいなかったら、どこかの国の圧倒的な軍事力を見せ付けられて、戦争を避ける方法を選択して無血開城といった所でしょうか。

 そういう意味で海兵隊を含めた米軍は、戦争抑止力になっていると言えるのではないでしょうか。
  

2010年5月7日金曜日

バブルがはじけた博物館

 「博物館が閉館の波」と新聞の見出しに出ていた。自治体の財政難で、増え続けて来た博物館が閉館の数が増えているという。

 私も以前、とある地方の立派な博物館へ行った時、余りの建物の立派さに「素晴らしい建物ですね、県立の博物館のようで、とても住民が数万人の自治体のものとは思えませんね。維持費も大変でしょう」と多少皮肉交じりの称賛を述べた所、「どこかで買ってくれる所はありませんかねぇ」と言っていた。

 しかしこんな大きな建物をどこかへ運ぶなんて出来ないし、誰も買えはしないだろう。

 色んな箱物を造り続けて行けば、一施設での維持費が何億円と掛かるのだから、そんなものを次々と建てて行けば、将来的にはそれらの維持費が財政を圧迫して、予算の動きが取れなくなると大分以前から、あちらこちらで言ったりはしていたのだが、それを分かってはいても誰も手を打たなかったというのが現実なのだろう。


             本庄市歴史民俗資料館

明治16年(1883)に建てられた旧本庄警察署









       

















 建物自体が文化財だ。床はギシギシと音がする。展示は古墳時代の土器や埴輪から旧中山道の宿場町の資料とか近代の様々なものまでと割と内容は豊富である。

 これなら維持費なんて知れたものだろう。こういう資料館や博物館を造れば、少なくとも借金で苦しむ事はないだろうと思われるのだが。

2010年5月5日水曜日

花の命は短くて


八重山吹


「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに無きぞ悲しき」

 この歌は、武将の太田道灌に、貸す蓑がなくて、その代わりに山吹の花を渡した娘が詠んだもので、時代は室町時代になるから、江戸時代から広まったソメイヨシノよりも、もっと古くから一般的にあった花である。



 「汽車が山道を行く時、薄紫色をした名も知らぬ花の群生が、線路の傍に咲き乱れていた。初夏の新緑が、まぶしい陽の光を浴びて輝いて見えた。向かいの席には外国人の旅行客と思われる青年がいて、窓を上げて季節の風を気持ち良さげに受けていた。
 その青年の肩の辺りまである金色のしなやかな髪が、時おり光り輝きながら、風を受けてそよぐ様は、映画のカットを見ている様に美しく、恰も風にそよがせるためにある髪の様でもあった。」

 こんな文章の小説でも書いてみたくなる季節ですね。





 僕は、真っ赤な色でいかにも「咲いているぞ!」というツツジの様な花も鮮やかで好きなのですが、何気なく咲いていて、それでいて存在感がある花に惹かれるものがあります。





普天間、5月末までに決着の意味

 H総理が米軍の普天間飛行場移設問題を「5月末までに決着させる」と言った時、「あっ、これは5月で辞めるんだな」と思った。その事は多分このブログにも書いてあったと思う。

 恐らく、彼自身の母親からの多額の資産贈与の件やO幹事長の不透明な政治献金の問題で、このまま参議院選挙に突入となれば、民主党は惨敗する事は、予想がついたのではないかと思われた。だから7月の選挙前の5月で辞めて、新しい執行部になって参院選を闘うつもりだと思ったのだ。
 H総理が辞めれば、必然的にO幹事長も辞めざるを得なくなるのではなかろうか。

 そして恐らくこれが民主党にとっての最良の筋書きだろう。しかし、H総理の本心はまだ知れないし、O幹事長がどう動くのかも不確実だ。

 昨日、沖縄で「『普天間移設は最低でも県外』と言ったのは、私の気持ちであって党の公約ではない」と彼が言ったのは、党へのダメージを最小限に抑える思いから発した言葉と言えよう。

 いくらなんでも5月末までに辞めないという選択はないだろうと思われる。もし辞めない選択を取るとなると、この人は何なんだという、国家としてもそして国民全体からも、この一連の流れの不可解とも思える現象への疑問が一気に噴き出して来る事になろう。

 そうなると、この一連の幼稚極まる出来事が、名門の出身、東大卒、内閣総理大臣といったそうそうたる肩書を持つ一人の人間のその実態、知的レベルそのものが問題視される事になってしまう。
 そうなった時、「待てよ、この幼稚さは、果たして総理一人に限った事なのか。それとも同じ様な人間が恐らくもっとたくさんいるのではないか。そしてそれらの人々がこの国の舵取りをしているのではないか」というそんな疑念を引き起こす。

 さらには、「一体この国は大きな問題ではなくても、もっと小さな問題であっても、解決に導くだけの能力があるのだろうか」という不安を人々に呼び起こし、何かもっと根本的な事から思い切って直して行かないと、全く希望も何も持てない先行き真っ暗になってしまうという不安を抱かせる事にもなる。

2010年5月4日火曜日

公園で見たもの

 何だろう?

 シートの様な物が折り畳んでうずたかく積み上げてある。

 ここの広場でテントでも張って催しものでもあった後なのだろうか?

 でもこれだけ高く積むと倒れそうで、子供が下敷きにでもなったら危ないなぁ。


 おや?何かが書いてあるようだな。



 「これは芸術作品です。危険ですから上らないで下さい」(公園管理者)