江戸時代の旧街道などを歩くと、至る所でくねくねと不必要に曲がっているのに気が付く。よくよく注意して観察しても、何故ここでカーブしているのか分からないというのが多い。
これまで、人々は江戸時代以前の中世はさらに曲がっていて、それより以前の古代であれば、多くが「けもの道」程度の道だと考えていた。ところが、この十何年かの間に、古代の道は広くて、しかも直線的な道が全国規模で種類分けして複数のルートを造ったり、主要道路の補助的な機能を持たせる道を造ったりと極めて計画的に整備されたという実態が分かって来た。
そして今日では、道の歴史的変遷はこれまで考えられていたように、少しづつ広げられて、曲がったところを真っ直ぐに修正されて来たのではないという事が歴史地理学や考古学の調査によって証明された。
以前から良く私は旧街道を歩いた。その度に気になったのが、道が不自然にクネクネしている事だった。その事実を事あるごとにどんな人に尋ねても、地形に影響されて曲がっているという答えしか返って来なかった。
誰もが、もっと昔の中世や古代には、江戸時代よりもっと道幅は狭くて、さらにクネクネしていたとそう思っていた。
所が、古代の官道が全国あちらこちらで発見されるようになって来ると、どこでも定規で計ったように直線的で圧倒的に道幅の広い道路である事が分かった。
私が調べて見た所では、江戸時代の街道の道幅は、当時のまま残っていそうな場所を探した所、4間(約7.2m)の所が多かった。
鎌倉時代の街道はというと、山林の中にそのまま残されているような場所があったり、発掘調査で見付かったりする場合があったりと、極めてその例は少ないのであるが、栃木県の小山市や東京都府中市や国分寺市での発掘例では、道幅は10mを超えている。
そして古代道路では、10m~12mの道幅のものが全国で見つかっている。
繰り返しになるが、少なくともここではっきりして来たのは、江戸時代までの日本の道路の歴史は、これまで考えられてきたように、古代の道路が狭くてクネクネしていて、それが時代とともに道幅を広げられ、真っ直ぐに直されて来たといった「進化・進歩の概念」は誤りだったという事が分かった。道幅が広がり、道筋が真っ直ぐになるのが「進化・進歩」と呼ぶなら、その逆の「退化・退歩」の道を歩んで来たとは言わないまでも、従来の考え方は否定されたと言わなければなるまい。
それでは時代とともに日本の道路が広く直線的な道から、狭く曲がりくねった道へと歴史を歩んできたかどうかというと、まだはっきりとした結論を出すには発掘等の資料が少ないと言える。
栃木県の小金井の一里塚間の道路の発掘調査では、道幅が9m程度の近世の道路跡が見つかっているし、東京都の国分寺市から府中市に掛けては東山道と中世の鎌倉街道が南北に並行して通っているが、片方は定規を充てたように直線的なのに対して、鎌倉街道の方は少しではあるが曲線的に通っていて明らかに双方に違いが見られる。
こういった数少ない一例や一部を捉えて、そこから全体論をいうには無理があると言わねばなるまい。その様な段階にはまだなく、時期尚早と言えよう。