2009年12月6日日曜日

「正義派」(志賀直哉)の舞台になった永代橋

 「或る夕方、日本橋の方から永代を渡って来た電車が橋を渡ると直ぐの処で、湯の帰りらしい二十一二の母親に連れられた五つばかりの女の児を轢き殺した。」という些かショッキングな書き出しで始まるのは、志賀直哉が明治45年(大正元年)に発表した短編小説の「正義派」で、29歳の時の作品である。

 その当時「轢き殺す」という言葉のニュアンスがどんなであったかは分からないが、今日のニュアンスからすれば、「轢き殺す」というのは、犯人が被害者を明確な意志を持って車で轢き殺すような感じを読者に与えてしまうので、重大な過失が無く、誤って轢いてしまったという場合には、「轢いて死なせてしまった」位の言い方が無難かと思われる。


 小説のあらすじは、路面電車が飛び出して来た子供を轢いて死なせてしまった。その時敷石の作業をしていた工夫の3人が目撃した。その目撃談によると、運転手は気付いて直ぐに電動の急ブレーキをかけずに、急には止まれない巻きブレーキで対処しようとして間に合わないと思い、その後慌てて電動ブレーキを使用したが死なせてしまったと言うのだ。
 運転手は突然飛び出して来たので間に合わなかったと主張したが、工夫らは直ぐに急ブレーキを掛けていれば事故は防げたと警察で主張した。

 3人はその事を公に証言しようとしたが、会社側の人間に、「君らも会社から仕事をもらって食べている立場だし、ここの所は…」と証言を止められてしまう。
 やり切れないもやもやしたものを抱え込んだ3人は飲食店にくり出して、酒も入って、従業員や客に聞こえる様に、既に多くの人が知っている昼間の事故について、あの事故の目撃者は俺たちなんだと言わんばかりに喋る。
 最初は興味を持って聞いていた店の従業員も、ひと段落つくと一人去り、二人去りして行った。
 真実を喋れない3人はまだ煮え切らないものを感じながら、店を出た後も、くだを巻く ように不満めいた言葉を口にしていた。
 
 こういった事は、いつの時代にも、どこででも起こり得る普遍性の高い出来事だと言える。

  なお、写真の永代橋は当時のものではなく、震災復興事業の一環として、架け替えられたものだ。