2009年9月11日金曜日

手賀沼風景(白樺派がいた頃)















 我孫子駅を出て手賀沼方面に向かい、台地から崖下に降りた低地にハケ道があり、その道沿いに志賀直哉の住居跡がある。

 彼がここに移り住んだのが大正4年(1914)の32歳の時である。当時新婚で、翌年に長女が誕生するが生後56日で病死した。その時の事情や長年に渡る父との確執が解決に至る流れは、「和解」に詳しく書かれている。
 ここから西隣の村に同じ白樺派の小説家だった武者小路実篤が引っ越して来た。彼の家は崖上の後ろを松林に囲まれた高台にあって、ここから見た富士山をバックにした夕焼けは大層美しかったそうだ。
 その当時は沼の水位が高くなると、低地の道は使えなくなって、舟を利用して行き来したことが割とあったという。

 手賀沼周辺は近年宅地化が進み、人口の増加とともに生活排水が川を汚すようになり、水質は悪化の一方だったが、最近になって浄化して行こうという試みが様々に始められてもいる。

 この宅地化の波は現在の法律上、遺産相続する段階でその土地を細切れにしてしまうので、なかなか自然景観を適度に残した計画的な開発というのは難しいというのが実態の様である。

 そんな中にあって武者小路邸跡一帯は残された貴重な観光資源といえる。崖下のハケ道沿いの古くからある農家、そこの低地から崖上の台地に通じる大きく切り通された斜面を含んだ山林の中を通る直線状の一本道、一部の山林は公園化されて、近くの中学生が体育の授業かで走り回っていた。

 この一帯の中に一軒のカフェがある。木のテラスとガラス越しに広がる木々の緑が一つとなって周囲に溶け込んだ作りを醸し出しているレトロでシックな店で、この直前に志賀邸跡のハケ道を挟んで斜め向かいにある「白樺文学館」で当時の白樺派の展示の数々に頭の中が触れて来た所だったので、何となく一体化して当時にタイムスリップした気分がした。