2009年9月3日木曜日

足尾銅山産業遺産




 栃木県の旧足尾町は、合併して今では日光市になっている。足尾銅山は江戸時代から銅の生産を開始し、明治時代の最盛期には日本屈指の生産量を誇ったものの、採掘によって出た排水が渡良瀬川を通じて下流の耕作地に被害を及ぼしたりして大きな社会問題になった。

 その生産も1970年代には、外国産の銅との競争もあって採算性の確保が困難となり、閉山に追い込まれた。このかつての銅山跡を世界遺産にしようとする取り組みが進められている様で、道路沿いにそうした看板があったり、また観光で坑道跡の一部を回るコースでは20人ばかりの年輩者の集団がドヤドヤとやって来て、聞いてみると市の教育委員で世界遺産にするための視察であった。

 どうやら日光東照宮の世界遺産と一体化させて観光事業として展開して行こうという事らしい。

 入場料の800円を払うと、トロッコ列車に乗せられて坑道へと向かう。トンネルに入って少しひんやりしたかと思う間もなく降りることになって、各自が見学しながら戻るのだ。線路のその先は関係者以外進入禁止になっている。坑道の総延長は東京から博多までだったか相当に長いのに、ここまでかと残念に思いつつ、戻りながら江戸時代から昭和までの鉱石を掘り出す人形やら道具などを見ながら、トロッコ列車で来たルートとは別のトンネルを進んだ。
 岩を砕いた跡も生々しく当時のままに残る石の壁に手をやると、岩間を滴り落ちて来る水に濡れた表面は固く、これを機会も使わずに手掘りで作業した江戸時代は中々はかどらなかった事は容易に想像が付いた。

 明治に入って、削岩機やダイナマイトを使って掘削するようになると、その総延長はどんどん伸びて遂には大鉱脈を掘り当てる事になる。そして輸出産業の稼ぎ頭となって行く。

 しかし生産量が飛躍的に伸びるとともに、鉱石から溶け出す鉱毒が渡良瀬川の下流域に大きな被害を及ぼす事になる。魚は死んで、漁業関係者は打撃を受け、大雨による川の氾濫で耕作物が鉱毒を含んだ水に浸って広範囲に大打撃を受けた。

 この事が田中正造らによって国会で採り上げられて広く知れ渡り、その後様々な汚染防止の対策が取られるようになった。