2009年9月30日水曜日

JR王子駅前の歩道橋から見た都電荒川線


 上を通るコンクリートの高架橋は東北・上越新幹線で、それと歩道橋との間に見えているのが京浜東北線のプラットホーム。
 画面下を左右に通っているのが明治通りで、線路は明治通りに入って右の方へと坂を上って行きながら、写真で隙間から木々が僅かに見える飛鳥山の先端を回り込むようにして、池袋から早稲田方面へと続いて行っている。
 手前の方の線路を三ノ輪方面行きが通り、奥のが早稲田へ行く電車だ。
 
 飛鳥山の方は台地上で、歩道橋の下は旧荒川(隅田川)の氾濫原の低地になっている。この崖上と下との高低差は十数メートルもあろうかという高さで、赤羽から上野まで続くこの崖の下をJRの在来線が走っている。
 いつもこの崖を電車の中から見ながら、気が遠くなる様なぼう大な歳月を思い浮かべる事がある。

東京珍百景


 こんな名前つけちゃいました公園

2009年9月29日火曜日

三人娘の五人家族(埼京線の駅近くで)


 埼京線の駅から近い広い道の歩道を歩いていると、前方に数人の集団がゆっくりと歩いていて、一番後ろの女性同士で腕を組んでいた片方の人が近づいた時に後ろを振り向いた。年輩の女性だったので、おばさんの集団かなと思って、追い越そうとその中ほどまで来た時、突然に後ろからその中の一人が喋り出した。
 「ねえ、お父さん。もし三人の娘の中で男が良かったとしたら何番目だった?一番上?それとも二番目?三番目?」
 少し酔ったような声だったので、日頃思ってはいたが口に出せなかった事を、酒の力を借りて言ったという風だった。もしかすると長女でもあったのだろうか。
 先頭を歩いていた人が、その言葉に振り返ると、お父さんだった。
 「四番目が良かったかな?お母さんがな…」と最後尾のお母さんに話題を振ったが、お母さんはそれには答えなかった。
 一見幸せそうに見えはしても、将来の事になると大なり小なりの不安はあるものだと思った。

この所の天気予報とうろこ雲 


 最近の天気予報がどうも当たらない。気象衛星が故障でもしたのか、「何とか心と秋の空」で予報がし難いのか分からないが、テレビの週間天気予報を見て今年は秋の長雨が無く終わるのかと思っていたら、突然がらりと変わって、今週は曇りや雨の愚図ついた天気になるという。

 曇っていたと思ったら、突然天気が良くなって、また夕方から崩れて、夜中には雨が降った様で、朝起きたらベランダの手摺が濡れていた。

 これじゃあ、予報も難しいか。

 そんな移ろい易い天気の晴れ間に撮ったスナップ写真。

 天高く、うろこ雲は飛行機よりも上空だった。

クスの大木と秋祭り


 都心のビル群の真っただ中にある大きな楠木である。大体これ位の大木になると、中が空洞になったり、どこか老木の弱々しい部分が見られるものだが、この木は元気そのものといった感じだ。
 
 道路や周辺の舗装や並び立つビルの影響も受けず、力強く生き続けている。
 
 そんな樹木にも「努力賞」。



2009年9月25日金曜日

利根川水系の八ツ場ダムが話題なので、荒川の治水も知りたくて荒川知水館へ(東京都赤羽)















 
 
 民主党が政権を取った事で、世間は八ツ場ダム建設中止の賛否に揺れている。このダムの建設が、将来来るかも知れない大型台風の大雨によって利根川の堤防が決壊するのを防ぐのに役立つという。 
 荒川はどうなんだろうか。という訳で、JR赤羽駅からテクテクぶらぶらと埼玉と東京の境を流れる荒川沿いの「荒川知水資料館」まで行った。
 汗ばむほどの日差しが降り注ぐ午後、それでも空気はカラッとしていた。 北側の商店街をぶらっと歩いて、アーケードのある大きな商店街の通りに入ると、人だかりがしていて、CDショップの前で男性演歌歌手が歌っていた。 
 そこを抜け、暫く東方向に行って、車の多い広い通りを越して少しするとコンクリートの塀のような堤防が見えた。隅田川の堤防で、そこまで行くと資料館が目に入った。 ここは隅田川(旧荒川)と現荒川の荒川放水路とが並行して流れていて、両河に挟まれて位置する資料館の中には、放水路の建設の歴史が分かるようにパネル展示されている。 
 
 旧荒川(隅田川)は明治時代に大きな台風によって広範囲に氾濫し、甚大な被害を及ぼしたのを切っ掛けに、それまで曲がりくねっていた川の隣に真っ直ぐな川を造って川の氾濫を防ごうと、赤羽の岩淵にある岩淵水門から東京湾の河口まで全長22km、幅500mの荒川放水路の工事に着手し、ようやく完成したのは、20年後の大正13年になってからだった。
 その後、堤防の決壊による洪水はなかったが、昭和22年(1947)のカスリーン台風で利根川だけでなく、荒川の上流部でも2か所が切れ、被害があった。
 それから今日まで60年以上も決壊は起きてない。その間、上流に二瀬ダムを造ったり、河川改修や堤防工事を進め、最近10年位の間に、秩父の方で浦山ダム、合角ダム、滝沢ダムの3つのダムが出来、さらに大規模な荒川第一貯水池は完成したばかりで、その他スーパー堤防の建設も進行中である。
 これだけやれば、もう災害対策は十二分過ぎるのではないかと尋ねてみた所、下流部の下町のスーパー堤防造りは、幅の広い堤防造りをするので、それに掛かる住居は一端立ち退いてもらってから、再び戻るという面倒な手続きを取らねばならず、進捗状況は必ずしも良くないという。
 こういう防災工事はいくらやっても完全100%という事はなく、切りがないといった感じはある。
 後はどの位費用を掛けられるかだろう。
 人が外出すれば、交通事故に遭うかも知れないし、風で看板が落ちて来るかも知れない。通り魔に出くわす危険も無くはない。それらから100%身を守ろうとしても出来る訳がないのである。

2009年9月24日木曜日

周辺の街並みに溶け込む


 ん?鳥居がある。という事は、神社。

地震の時にはブロックなどの塀に近づかないでね


 人を思いやる、他人への気遣い、そうした心が失われてつつある現代社会。ちょっぴり寂しい思いを抱きつつ、ブラブラと当てもなく歩いていたら、こんな看板に出会いました。こういう心遣い、大切にしたいですね。

2009年9月20日日曜日

ペンキ塗り


 お父さん、上手ですねぇ。くろうとはだしの腕前じゃないですか。

無数の貝殻で覆われていた東金野井貝塚(千葉県野田市)










 
 国道16号線を埼玉方面から来て、江戸川を渡って千葉県に入って程ない所にある。

 神社の境内は真っ白に貝殻で覆われている。鳥居の前の細い道を挟んで向こうにあるビニールハウスの方までも無数の貝殻が散らばっている。

 縄文時代に東京湾がこの辺まで来ていたんだ、と感慨ひとしお。定住して貝ばかり食べていたのだろうか。

 ひと所に定住して、決して一遍には食べ尽くさなかったのだろう。そうでなければ、これだけの貝殻は一カ所から出て来ない。持続可能な生活を既に身に付けていたと見た。縄文人、侮り難し。

 周辺を回ってみたら、ここから数百メートル離れた所でも貝塚があって、そこにも神社があった。もしかして貝塚があったから、神社を建てたのかな?
 機械に振り回されている現代人よりも、昔の人の方が知恵はあった…かもね。

ありし日にメモった岩殿観音



 電柱に繋がる斜めのワイヤーに、赤トンボが3匹等間隔で止まっていた。まるで計った様だった。そこへ1匹が来て止まった。それは他の3匹の間隔より少し広かった。暫くしてそれは飛び立ったが、また戻って来て止まった時には他もばらけた。

 その時、もし4匹が全く等間隔に並んだら自分はどう思ったかに付いて考えた。

 秋の日、岩殿観音の木立の上に一つの雲がぽっかりと浮かんでいた。細長くてもこっとした一つの雲の塊が。

 蛙が鳴いた。正午のチャイムが鳴った。遠くでカラスが、近くで虫の音。

 鳥居の傍では金木犀の香りが漂い、草むらにはたくさんの赤とんぼが行き交っていた。

 参道沿いの家々の奥は両方とも同じような高さの崖になっていて、真っ直ぐに伸びた道と沿道の家並みがすっぽりとその中に入り込んでいる様な印象を受けた。

 山門の階段の近くに、おそらく講などの参詣者達の宿だったと思われる昔ながらの建物があって、正面入り口の上に木札が横一列に並べて掛けられていた。それには、九段、青山、神田、牛込、下谷、上野、本所といった東京の地名が書かれていた。

 古い山門には、紙の札があちこちに貼られていた。石段を上り掛けた時に、猫が前方を横切るようにゆったりと歩いているのが目に入った。猫は門の真下あたりで、近づいて来た蝶を前足で挟むようにして採ろうとしたが、逃げられるとまた元の様に歩き出して去って行った。

 この描写は10年程以前のものだが、今では若干参道沿いの家々の感じが変わったように思えた。でも石段を上りきった観音堂の境内に立つと、時間は止まっていたかのように古建築の重厚な本堂と傍らの大イチョウが、でんと構えていた。

2009年9月12日土曜日

雨水桝にポイと捨てられた煙草の吸い差しの行方(「ふれあい下水道館」小平市)

 道路の脇の排水溝に雨水桝があって、その蓋に細長い穴が3本くらい開いている。良く見るやつだ。そこに煙草の吸いかけを投げ入れたりした事はないだろうか。
 我々の流した排水や雨水がどうなっているのかを、東京都小平市にある「ふれあい下水道館」へ行って調べてみようと思った。

 駅から津田塾大学を目指してぶらぶらと歩いたら、玉川上水に来た。近くに橋があって、鎌倉橋という名前だった。「この辺かぁ、鎌倉街道が通っていたのは」と一瞬、鎌倉時代の武士団が頭の隅をよぎった。そばに標柱があって、そこの地図に下水道館が出ていたので道順が決まった。東京にはあちこちに地図があるので、結構便利だ。
 「ふれあい下水道館」は地下5階の構造で、最下層の地下25mにある本管の中に入れるようになっている。分厚い頑丈そうな扉を通って本管の中に入ると、生ぬるい湿気を含んだ空気に覆われ、僅かに匂いはあるものの、思ったほどではない。管の大きさは地下鉄も通れる位なほどで、水量は少なかった。頭の上のライトには小蠅のような虫が集まっていた。
 東京都は合流方式なので、汚水も雨水も一緒になって下水処理場へと運ばれる。処理方法としては、薬品で沈殿させたり、微生物の分解で汚れを取り除き、塩素殺菌して川や海に放流する。浄水場も似たような仕組みになっている。
 ちょっと待って、質問がある。バイ菌は塩素消毒で大丈夫なようですが、あの排水溝に捨てた煙草の吸い掛けですよね、ニコチンやタールはどの過程で処理するんですか。残念ながら処理されず、薄められたまま、下水処理場を通過し、浄水場も通り抜け、家庭の蛇口まで来てしまうという事のようだ。
 雨水桝に煙草の吸い掛けをポンと投げ入れた人は、まさか自分が飲む水道の蛇口から、ニコチンとタール入りの薄まった水が出て来ているとは思いもしないに違いない。
 山からの水を引いて生活用水としている地域では、上流の人は下流の人たちが使う事を考えて、汚さないように気を付けながら使っている。それが都会では複雑な仕組みになって、人々に分かり難くなってしまっていてその事が無責任な行動と結び付いたりはしていないだろうか。今一度考えてみる必要がありそうだと思った。

2009年9月11日金曜日

手賀沼風景(白樺派がいた頃)















 我孫子駅を出て手賀沼方面に向かい、台地から崖下に降りた低地にハケ道があり、その道沿いに志賀直哉の住居跡がある。

 彼がここに移り住んだのが大正4年(1914)の32歳の時である。当時新婚で、翌年に長女が誕生するが生後56日で病死した。その時の事情や長年に渡る父との確執が解決に至る流れは、「和解」に詳しく書かれている。
 ここから西隣の村に同じ白樺派の小説家だった武者小路実篤が引っ越して来た。彼の家は崖上の後ろを松林に囲まれた高台にあって、ここから見た富士山をバックにした夕焼けは大層美しかったそうだ。
 その当時は沼の水位が高くなると、低地の道は使えなくなって、舟を利用して行き来したことが割とあったという。

 手賀沼周辺は近年宅地化が進み、人口の増加とともに生活排水が川を汚すようになり、水質は悪化の一方だったが、最近になって浄化して行こうという試みが様々に始められてもいる。

 この宅地化の波は現在の法律上、遺産相続する段階でその土地を細切れにしてしまうので、なかなか自然景観を適度に残した計画的な開発というのは難しいというのが実態の様である。

 そんな中にあって武者小路邸跡一帯は残された貴重な観光資源といえる。崖下のハケ道沿いの古くからある農家、そこの低地から崖上の台地に通じる大きく切り通された斜面を含んだ山林の中を通る直線状の一本道、一部の山林は公園化されて、近くの中学生が体育の授業かで走り回っていた。

 この一帯の中に一軒のカフェがある。木のテラスとガラス越しに広がる木々の緑が一つとなって周囲に溶け込んだ作りを醸し出しているレトロでシックな店で、この直前に志賀邸跡のハケ道を挟んで斜め向かいにある「白樺文学館」で当時の白樺派の展示の数々に頭の中が触れて来た所だったので、何となく一体化して当時にタイムスリップした気分がした。










 

2009年9月5日土曜日

ローカル線慕情(わたらせ渓谷鉄道)

 
 




 山あいの人けのない小さな駅に、日の落ちて行くのは早い。


 

2009年9月3日木曜日

足尾銅山産業遺産




 栃木県の旧足尾町は、合併して今では日光市になっている。足尾銅山は江戸時代から銅の生産を開始し、明治時代の最盛期には日本屈指の生産量を誇ったものの、採掘によって出た排水が渡良瀬川を通じて下流の耕作地に被害を及ぼしたりして大きな社会問題になった。

 その生産も1970年代には、外国産の銅との競争もあって採算性の確保が困難となり、閉山に追い込まれた。このかつての銅山跡を世界遺産にしようとする取り組みが進められている様で、道路沿いにそうした看板があったり、また観光で坑道跡の一部を回るコースでは20人ばかりの年輩者の集団がドヤドヤとやって来て、聞いてみると市の教育委員で世界遺産にするための視察であった。

 どうやら日光東照宮の世界遺産と一体化させて観光事業として展開して行こうという事らしい。

 入場料の800円を払うと、トロッコ列車に乗せられて坑道へと向かう。トンネルに入って少しひんやりしたかと思う間もなく降りることになって、各自が見学しながら戻るのだ。線路のその先は関係者以外進入禁止になっている。坑道の総延長は東京から博多までだったか相当に長いのに、ここまでかと残念に思いつつ、戻りながら江戸時代から昭和までの鉱石を掘り出す人形やら道具などを見ながら、トロッコ列車で来たルートとは別のトンネルを進んだ。
 岩を砕いた跡も生々しく当時のままに残る石の壁に手をやると、岩間を滴り落ちて来る水に濡れた表面は固く、これを機会も使わずに手掘りで作業した江戸時代は中々はかどらなかった事は容易に想像が付いた。

 明治に入って、削岩機やダイナマイトを使って掘削するようになると、その総延長はどんどん伸びて遂には大鉱脈を掘り当てる事になる。そして輸出産業の稼ぎ頭となって行く。

 しかし生産量が飛躍的に伸びるとともに、鉱石から溶け出す鉱毒が渡良瀬川の下流域に大きな被害を及ぼす事になる。魚は死んで、漁業関係者は打撃を受け、大雨による川の氾濫で耕作物が鉱毒を含んだ水に浸って広範囲に大打撃を受けた。

 この事が田中正造らによって国会で採り上げられて広く知れ渡り、その後様々な汚染防止の対策が取られるようになった。









 




2009年9月2日水曜日

日光散策のつづき(輪王寺 東照宮 大猷院など)


 写真展を開催しているホテルを出てから、神橋を横に見ながら大谷川を渡って、輪王寺まで坂や階段を上って行った。

 輪王寺三仏堂の前の広場では、ツアー客が記念写真を撮っていたので、それを少し待ってから大きな堂の前にある入場券売り場まで行き、一通りを回れる1300円の券を購入した。これだと、傍の徳川家由来や輪王寺関連の展示資料のある宝物館とそれに隣接する庭園、その後に三仏堂の中へ入って金ピカの大きな仏像三体などを見て、次に東照宮へ行き、そこでは「眠り猫」は別料金だが「見ざる聞かざる言わざるの」3匹の猿の彫刻や陽明門、それから「鳴き竜」が見学出来、出てから二荒山神社へ向い、そこで中へあがって、最後に家光の霊廟がある「大猷院」を見て回るコースになる。

 先ずは近くの宝物館と庭園を見た。庭園では庭の苔をはがしている職人さんがいたので、話を伺うと、苔にも良いのとそうでないのがあって、前者が十数種類 で後者が2種類あり、この少ない種類のが非常に繁殖力が強くて他種を押しのけて広がってしまうので、それを取り除いているのだという。悪貨は良貨を駆逐するという格言はここでも当て嵌まる。

 そんな事を思いながらパチパチとシャッターを押していたら、メモリー不足の表示が出てしまった。最後に見物する場所の入場時間の最終が4時半だったので、メモリーを選択して消す時間がなく、写真を撮るのを諦めた。

 東照宮もあちこち修理していた。建物が多くて、その上装飾が凝っているので総てを修理し終わるまでには、費用とか職人さんの数とかの事もあるので、かなり時間が掛かるのだという。因みに費用の半分は税金で、残りが入場料や寄付金だそうな。

 その寄付を募っている窓口の隣の建物の手摺りの付いた張り出した床は、風雨に晒され続けて腐れたのか壊れていた。ほんのちょっとした偶然か。

 鳴き竜が天井に描かれた部屋では係りの人が拍子木を打って、鈴が転がるような余韻を竜の下に集まった人々に聞かせていた。確かに竜の絵の下ではそれが聞こえるが、他では聞こえない。あら不思議とその謎をぶつけてみたら教えてくれた。竜のところだけ天井が湾曲しているので、特殊な聞こえ方をするのだそうだ。