2026年5月6日水曜日

行きは「こだま」で帰りは「のぞみ」の東海道新幹線

  

【新大阪から帰りは「のぞみ」】

 午後4時頃、新大阪駅から埼玉の自宅まで帰るのに、「こだま」と在来線のグリーン車でも乗り継いで行こうと思ったが、時間が相当に掛かるのが分かった。仕方なく「のぞみ」にした。

 窓際の席が取れたが、車両は聞いた程いっぱいではなかった。東京までは2時間半で行くので早い。途中は京都と名古屋と新横浜くらいしか停まらないので、ビュンビュンと行く。

 京都は若い頃に屡々観光で訪れたが、泊まるのは決まって京都ホテルだった、1992年に解体されるまで。というのは、特別に割安な部屋があったのだ。窓のない狭い部屋だったが、1人には十分だった。そこはいつも空いていた。

 ある時、フロントに鍵を取りに行くと、「8,000円の部屋の人ですね」と言われて渡された。そしたら隣に来た人が「25,000円の部屋の◯◯です」と言った。普通のホテル代はそんなにするのかと思った。私はそんな値段で泊まれるような収入状況ではなかった。

 京都盆地からトンネルを抜けると山科に出る。すぐにまたトンネルに入って滋賀県の琵琶湖南岸の市街地を通って、田園の多い地帯に移って行く。そこを過ぎると伊吹山が見えた。雪があちこちに残っていた。山の麓の方には関ヶ原古戦場址があり、古代三関の不破関(ふわのせき)址もある。

 ここの関を境に東を関東、西を関西と呼ぶようになったという。平治の乱で敗れて東国に逃れようとした源義朝一行は、ここ不破関を回り込むように雪深い伊吹山の方を通ったのか、途中で追手に捕まってしまう。が、義朝の子の頼朝はまだ幼かったので、命は奪われずに伊豆に流された。

 そんな事がチラチラと頭に浮かびながら、名古屋はすぐだった。名古屋を過ぎ、天竜川を通り越し、静岡に来る頃にはもう暗くなっていて、灯りくらいしか見えなくなっていた。

 とにかく2時間半は速かった。小学生の頃は夏休みに良く三重県鳥羽市にある親戚の家に連れて行ってもらったが、いつも夜行列車だった。夜に東京駅を出発する蒸気機関車の急行は、連結器の音を響かせながらゆっくりと走り出すのだった。

 新橋辺りの飲み屋街のネオンの看板が、そこだけ昼間のように輝いていたのが印象に残っている。途中にある長いトンネルの辺りまでは起きていて、車窓に点在する家々の灯りを見ながら、家庭の団欒などを想像していた。

 目覚めるのは名古屋に着いてからだった。そこでスイッチバックし、機関車が一番後ろの車両に連結されるのだった。その作業で一旦目覚めてしまう。で、そこから鳥羽までは車窓を流れる景色がそれまでとは逆になった。


【東京から行きは「こだま」】

 旅先から家に帰る時は速い方が良いが、行きはのんびりと窓からの景色を見ながらが好きだ。だから東京から名古屋までは「こだま」に乗った。大概は「こだま」が多い。

 新幹線は都会のビル群から、住宅地へと移り、田園地帯を過ぎると山が見えて来る。都会のビル群→住宅地→田園地帯→山々というように変化して行く流れがおもしろい。その中に大きな山が見えて来るが、これが大山だ。江戸時代から大山参りとして有名である。埼玉の自宅の近辺でも、江戸時代の道標に大山と刻まれている。

 以前はお気に入りのハイキングコースだった。中腹の大山阿夫利(おおやまあぶり)神社まで登って、そこからぐるりと回って降りるコースだった。一度頂上までと登った事があったが、石がごつごつしていて足場が悪く、頂上まで行ったという記憶はない。たぶん途中で戻ったのかも知れない。

 箱根の山は旧東海道を湯元から芦ノ湖まで何度か登った事がある。40代の頃は一気に登っていたが、60代後半に登った時には途中で息が上がって、少し休みを取った。その時、年齢を思い知った。こうやって人は老いて行くというのを実感した一例だ。

 老いを知るのも新しい知識と言える。もの忘れが多くなる。老眼になったり、歯がなくなって行く。歩いていて足を上げる高さが、実際と感覚とでズレが生じるようになる。若い頃は海岸の岩場をヒョイヒョイと小走り出来た。いちいち岩の高さや形状を認識している訳でもないのに、なぜかつまずかず、足を踏み外すことなくできた。

 動物でもシカ類が山の岩場を凄いスピードで駆け抜けて行くのを映像で観るが、彼らは決して岩をじっくり見ながら駆け抜けて行くのではない。前方の岩を一瞬で判断しながら走り抜ける。目隠ししたらムリだろうから、瞬時の判断力だろう。

 それが若い時の私にはあったが、高齢になるとちょっとした所でもつまづいたりするので、岩場を歩く時には慎重にならざるを得ない。50歳頃にある広場にちょっとした階段があって、そこを駆け上がった時があった。そしたら上の方でつまづいて、少し強く手を付いてしまった。階段を駆け上がる場合には、その高さが同じと判断して、ほぼ同じ高さに足を上げる事になる。それが出来なくなったのかどうか確かめるために、つまづいた付近の階段の高さを測ってみた。そしたらそのつまづいた所の階段だけが、2センチくらい高くなっていた。その時、まだその点に関しては老いは来ていないと判断した。

 「こだま」は三島駅に停車するが、この辺まで来ると富士山が間近に見える。雪の山肌に人がいたら、黒い点のように見えるのではないかと思う程だった。

 大きな製紙工場のある富士市に入ると、あちこちにある煙突から白い煙が立ち上っている。若い頃にここから興津まで旧東海道を歩いた思い出が蘇る。新幹線を富士駅で降りて、駅前の蕎麦屋で朝食をとり、そこから歩き出した。富士川を越え、蒲原宿に入る手前の小さな公園で一休みして汗を拭いた。

 蒲原は古い町並みが残っていたような印象はあるが、ハッキリ覚えていない。由比に入ると由比正雪の生家があってその時は染物屋をしているようだった。由比駅の前に来て、昼食のために周辺を探し、ランチと書いてあった寿司店に入った。ランチ寿司にしたが、小さな蛸のようなのが乗った握りが、柔らかくて美味しかった記憶がある。そこから望嶷亭に向かったが、あいにく閉まっていた。

 そしてすぐ上り坂になるが、途中で道に迷ったりしながら興津にたどり着いた。

 新幹線は旧東海道とは少し離れた所を通る場合が多いが、富士川・安部川・大井川・天竜川など川を通るたびに旧東海道を歩いた時の事を思い出して感傷に浸れるのが結構楽しみである。