2009年11月6日金曜日

神田の古本まつりで考える


JR御茶の水駅を降りて、明大通りを三省堂の方へと下って行く途中で、空を見上げるとこんな雲が浮かんでいた。




  出版不況とか言われている。つい何カ月だか前にも出版社が倒産したニュースを目にした記憶がある。
 何でも、出版点数を相当増やして行ったという事なのだが、結局どれも当たらなかったというのだろうか。

 どこの出版社でも、多かれ少なかれ同じような傾向があるのだろうか。新たに出版する点数も多いし、冊数も膨大になり、それらの返品の割合も4割に達するとか聞く。

 当たるとか当たらないとかと、出版でカネ儲けを第一に考える様であれば感心しない。書籍を読む事によって読者の知的レベルが上がれば、読者は騙され難くなり、本を見る目が肥えて来て、内容のない詰まらない本は買わなくなる。

 しかしその逆に読者の知的レベルが下がれば、洗脳し、騙し易く、宣伝効果が上がる様になり、内容が大した物ではなくても売れる様になり易くはなるだろう。
 
 だから会社が儲けを第一に考えるならば、客がいわゆる利口でない方が儲け易くなると言えよう。これは権力者にとっても言える事で、国民が利口ではない方が収め易いと言えよう。 

 しかしこのように一部の人の利益になる事が全体にとっての利益になることと一致はしない。会社でも国でも、社員や国民が御し易くなれば、会社や国の全体のレベルが低下する事に繋がり兼ねなく、全体として衰退して行かざるを得ない。

 そうすると結局は回りまわって自分の所に跳ね返って来る事になるのだが。

 出版文化、出版のあり様の本来は、広く一般に書籍を広めて、人々の知識を豊かにし、知的レベルを向上させるためのものであるにも拘わらず、今日は本末転倒してカネ儲け第一主義に陥ってしまう危険性を常に孕んでいる状況と言えよう。

 また書き手は多くの読者の中から育って来るのであって、そうする事によってのみ読み手から書き手へと引き継がれて行くものである。そうした一連の自然な引き継ぎの流れの中で、出版社は読者や書き手を育てて行くといった役割を担うものだと考える。
 
 ところが今日では一部の出版人が、「書き手などは誰でもいいんだ。本なんかは内容よりも宣伝やタイトルやタイミングで売れるのであって、内容は二の次」といった考え方が蔓延ってしまった様に感じる事もある。

 こういう傾向になる事が切っ掛けで、読み手や書き手から活力が失われて行き、遂には社会全体が衰退していく一因になり得ると思われる。
 
 つまり教育が洗脳され易い人間を作り出そうとしている事は、そもそもそれの始まりと言える。「疑ってはならない。信用しろ。覚えろ。」そういう教育は地位や権力の保身のために行う教育の典型的なものであって、西洋の疑問を持つ所から始まる学問とは根本的に違っている。

 かつて、「社員はバカでいい」と言った有名企業の社長がいたが、それは社長や権力者の保身を第一に考えた場合に正しいのであって、会社や社会全体の事を考えれば、将来的にそういう会社や社会は衰退していくのは自明と思われる。