2012年12月16日日曜日

ホンダが狭山から寄居へ生産軸を移転で市の税収






 ホンダは埼玉県狭山市の狭山工場の生産体制を縮小する方向で同県寄居の新工場を稼働させる計画だ。日本経済新聞に狭山市長へのインタビューが載っていて、この縮小が市にどう影響するかが語られていた。

 これによると、狭山市は2003年度以降は地方交付税の不交付団体だったが、リーマン・ショック以後に税収入が減り、2010年度から交付団体になった。

 ホンダの法人市民税は2007年度に過去最高の58億円だったが、2011年度は16億円と激変した。

 狭山工場には比較的狭い場所に約6300人が働いている。狭山工場で働く従業員が減ると、市への法人税が減る他、市内在住の従業員が転出すれば個人市民税も減る。
 また設備が減れば、固定資産税に影響が出る。

 狭山工場からは1000人の従業員が移動する予定だという。市内に住む従業員は6300人の半数よりも少ない。

 一方、狭山工場へ通勤していた従業員の大半は、自動車で寄居工場まで通勤すると見らている。寄居工場の稼働当初の従業員は約2200人。
 寄居町では工場の稼働を機に町へ定住してもらおうと様々な支援策を打ち出している。



川越狭山工業団地

狭山市

ホンダ



 ホンダの伊東孝紳社長は21日、中長期の取り組みについて記者会見し、2013年7月に稼働する埼玉県寄居町の新工場について「小型車専用とすることで生産効率向上をはかる」と述べた。2014年春稼働のメキシコ工場についても同様に小型車専用とする。

 寄居工場は新たな生産技術の投入により、高効率な体質を構築し、新型「フィット」などの小型車を集中生産する。同県狭山市にある既存工場は2本ある生産ラインの一部を集約。10機種以上を混流生産できる体制にする。鈴鹿製作所(三重県鈴鹿市)では軽自動車をメーンに生産するという。

 伊東社長は「国内で100万台という生産体制は維持する」と強調。「半分を鈴鹿、半分を関東地区で生産し、それぞれの工場が事業を継続できるようにする」と述べた。〔日経QUICKニュース(NQN)〕


 産業の現状とホンダ寄居工場の立地

ホンダ寄居工場2013年操業へ

新型「フィット」生産予定の寄居工場


                           (2013.3.26 更新)







2012年12月14日金曜日

影富士

冷たく澄んだ茜色の西空に秩父連峰の稜線がクッキリと浮かびあがっていた。でもやはり目に付くのは富士山だった。

 ホームの端から富士山の方を見ていたおじさんがUFOを見たと話しかけて来た。良く見ると小さく飛行機が飛んでいるのが見えたのと、小さな雲のようなのが光の点になって見えているかヘリコプターが西日で反射して光っているのか、そんなのも見えた。

 

 

2012年12月6日木曜日

まだ紅葉





信濃町の駅を出て、駅前の歩道橋を上ったら、ホームレスの老婆がいた。随分と目立つ所にいるものだと思ったが、顔も服装も黒っぽく汚れた感じだったが、わりあいふくよかで元気そうに見えた。汚れた部分を除けばどこにでもいるような多少品の漂うような顔立ちだった。
 
 
この生活が長い感じではなく、持ち物も持たず、目立つ場所をよたよたと歩いていた。何らかの原因で家族が崩壊してしまったのだろうか。
 
そういう事態がいつ自分の身に降り掛かったとしても、不自然はないのだろうなと思った。その時、冬の寒空の下で果たして生き抜いて行けるかどうか、余り自信の持てない自分がそこにいた。
 



イチョウを見物する人の中には写真を撮る多くの人がいたが、意外と目に付いたのが介護者に付き添われた車椅子のお年寄りで、何人も見掛けた。















公園
 







 日本庭園
 
 




 
 
 
 
 

2012年11月30日金曜日

晩秋の沼

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




























2012年11月6日火曜日

秋の日の埼玉古墳群(埼玉県行田市)

古墳に上ると周囲が田園地帯なので、遠くまで見通しがききます。
 
 
 
 
 
 
 

  この古墳の墳頂から、金の糸で文字が埋め込まれた国宝の鉄剣が出土しました。







                 コスモスも盛りを過ぎていました。










                ススキが風になびいていました。








 前方後円墳ですが、手前の山の部分は削られてしまっていたので、復元したものです。







                 秋の日の夕暮です。








日本で一番大きな円墳と書いてありました。




県立さきたま史跡の博物館・・・施設は古墳群の中にあり、他にもりっぱな茅葺き屋根の民家の展示もあります。



 

2012年9月9日日曜日

筑波山とヒマワリ

茨城県筑西市にある私設博物館の「新治汲古館」が東日本大震災で被災し、管理に支障を来たしたため、桜川市の真壁伝承館歴史資料館で一部を引き受ける事になり、企画展が開かれていた。

それを見に行く途中で撮ったスナップ。

 左が図書館、右が資料館



 新治廃寺の瓦



新治郡衙の正倉跡から出土した焼けて黒くなった米

 http://simomura-nobuo.blogspot.jp/#!/2012/09/blog-post.html

 

2012年8月25日土曜日

変貌する東京駅近辺と日本橋

 
日本橋の古いビルと新しいビル
 
 
 
 

 東京駅丸の内口
 



東京駅八重洲口







高層化したパレスホテルは南向きで、皇居は西







打ち水のアート







 

2012年8月16日木曜日

伝馬町牢屋敷跡から江戸時代の水道網が出土


東京都中央区日本橋小伝馬町で、江戸時代にあった伝馬町牢屋敷の跡を発掘調査していて、その見学会があったので行って来た。




調査地は回りを鉄の板でぐるりと覆っていて、当時(18世紀頃)の地面は現在よりも3メートル以上は低かった。だいぶ埋め立てられているのが見て取れる。





木製の細長いのが江戸時代の上水道だ。神田川の上流から神田上水として水を取り、JR水道橋付近で神田川に橋を掛けて上水道を渡し、日本橋方面へと水道管は張り巡らされていた。

上の写真の四角いのは枡で、左下の方から流れて来た水が枡で二分割されているように見える。

右下の丸い穴は井戸で、井戸から飲めるような水が出て来れば、上水を引く必要はない訳で、たぶん海に近い事から海水混じりの水だったので、飲み水以外の使われ方がされたのだろうと推測される。





牢屋の建物に使われていた石垣で、どの位の高さまで積み上げられていたのか分からないが、それ程大きくはないので頑丈な建物の土台として使われていたのだろう。








遺跡地は、大正12年(1923)の関東大震災を経て、写真のような震災復興小学校(十思小学校)が出来た。
発掘現場はこの建物の奥になる。



■ 見学会の資料から
遺跡は隅田川の西方約900m、神田川の南方約550mに位置する。この地は江戸前島(まえじま)と呼ばれる半島状の砂洲の東側の一角にあたり、中世末までは海沿いの土地ないし沼沢地であった。

天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康が入府してから開発が盛んになり、遺跡地も土が盛られ造成されていった。
牢屋敷は、家康入府当初の天正18、19年頃は常盤橋門外、今の日本銀行辺りに置かれていた。
伝馬町に移転したのは慶長18年(1618)頃からと言われている。




より大きな地図で 伝馬町牢屋敷跡 を表示


2012年6月4日月曜日

国内最大級の規模だったつくば市の竜巻



5月6日に茨城県つくば市北条で大きな被害をもたらした竜巻は、国内最大級のF2で、被害が集中したつくば市では死者が1人、負傷者が37人だった 。 

また過去には、2006年11月に北海道佐呂間町で9人が死亡した竜巻が、F3だった。

つくば市北条地区の被害状況は写真の通りで、酷い所では家がひっくり返るほどであり、車は飛ばされるし、竜巻が通過した付近ではほとんどのガラスが割れ、瓦が巻き上がられた。






このアパートは竜巻の中心部が通過したために、すべてと言って良いほどのガラスが割れ、中の物が滅茶苦茶になった。


筑波山へ上るルートの麓に、古くからある旧道の街並み










近くの住民が撮影した竜巻の映像



被害状況をヘリから撮影したニュース


2012年1月3日火曜日

隅田川の堤防沿いを歩く


 川面に白く光るものが点々とあるが、一体何だろうか。



 分からない。不可思議な現象か?



 向うから船がやって来たぞ。





 何の船だろうか。




 堤防の外に公園があるので、この辺りも綺麗に整備されている。




 奥に見える橋の方へ向かって歩いた。




 浮輪と梯子があった。遊んでいて落ちる人も中にはいるだろうから、その時のために備えている。




 橋の近くにも浮輪があった。