2013年8月12日月曜日

碓氷郡と甘楽郡の境にある謎の大溝

 

 群馬県富岡市と安中市の境に沿って走る古代の溝である。上の写真には溝の断面が写っていて、白いクリームのように黒土でパックされているのは、1108年に浅間山の噴火で積った火山灰である。
 黄土色の土は関東ローム層と呼ばれるいわゆる赤土で、その上に黒い堆積土が乗っている。掘削当初は写真手前のように掘られた状態だったが、年月とともにだんだんと黒い土が堆積して行き、江戸時代の浅間山の噴火の頃には完全に埋まってしまっていたと考えられる。
 噴火後は火山灰を取り除いたり、新しく土を入れ替えたりして耕作が続けられてきた。その場所が圃場整備の対象となり、工事の前に発掘調査が行われた所、この溝が出現した訳である。

 さてそこから何が分かるかと言うと、火山灰の下の黒土は噴火の前に堆積し、上の土はそれ以降に堆積したという事だ。
 写真で作業員が手押し車を押している地表面に灰色に写っているのは、1783年に浅間山が噴火した時の火山灰で、本来はもっと積っていたのだが、上の方はかなり削られてしまっている。

 大雑把にいうと、挟まった平安時代の火山灰から地表面の江戸時代の火山灰までの期間が、1783-1108=675となる。
 これを溝の中心部分の堆積層の厚さで推測して見ると、下の厚さは上の厚さの3分の2くらいと思われ、675×2/3=450となり、1108-450=658 になるから、大体7世紀後半から末頃に掘られたと考えられる。

 で、この大溝に囲まれた敷地内は古代の牧(馬を放牧する場所)と見られていたが、文献にはこの牧の存在が載っていない。溝の長さは現在分かっているだけで、4~5キロメートルあるという。それ程大規模ならばなぜ文献資料に出て来ないのかと言われているようだ。

 しかしながら「日本書紀」の668年に「多くの牧場を設けて馬を放牧した」とあるので、これに該当するかも知れない。



 
 
 最初にこの溝が、富岡市と安中市の市境になっていると述べたが、実は碓氷郡と甘楽郡の境でもあり、どういう訳か溝に沿って道が通っていて、溝と境が一致している。
 では古代からこの溝が境になっていたのだろうか。古代の郡境は山林などではもやっとした感じで、ハッキリした境はなかったと言う人もいる。 ここではすぐ傍に段丘があり、崖と溝とは並行するように続いているので、段丘を境にすれば良いと思うのだが、崖より台地に入った所の溝が境になっている。
 
  
 
<参考になる文献>
 
 

牧について