こういう細い道を軽自動車で進んで行った。
その先に水野忠邦と先祖の墓地があった。
ここは茨城県の西部に位置する結城市山川新宿という所だ。
水野忠邦は江戸時代の終わり頃に飢饉があったり幕府の財政が逼迫していた時期に老中の役職に付き、緊縮財政を進め、庶民に倹約を強いた。歴史の教科書にある天保の改革である。
この政策は百姓一揆などを招き、長くは続かず、彼は失脚を余儀なくされた。
この地に墓があるのは、数代前の先祖が結城藩の藩主に赴任した時に墓を作った事による。それ以来、水野家藩主はここに墓を作った。
墓石はことごとく倒れていた。低地の田んぼより高い所にあったが、盛土して造った墓地かも知れない。
近くの農家の屋根もあちこちブルーシートが掛かっている所があり、かなり揺れた事が分かる。