2010年11月20日土曜日

鎌倉の路地から海へ


寿福寺の門の脇にあった、いかにも古そうな石塔です。





門の外でも中でもスケッチしている人が何人もいました。




ここから中には入れません。





鎌倉独特の「やぐら」の中に並ぶ五輪塔。大きなのは初期のもので、小振り(写真)のが中世後期のものと言われています。





寿福寺裏にある墓地の、一番奥の高い場所に幾つも「やぐら」が掘ってあって、北条政子や源実朝の五輪塔があります。その辺りから撮ったスナップです。




鎌倉の岩山は比較的柔らかい材質なので、こうしたトンネルがあちこちに見られます。




民家の庭先も、鎌倉って感じなんでしょうか。











御成小学校の講堂です。70年近く経っていて、老朽化が進んでいます。しかし修理をするにはかなりの費用が掛かるため、未だに大規模な工事には入れません。
校舎は、10年前に建てられた木造の2階建てで、鉄筋校舎の2倍の建築費が掛かったそうです。

以前、この学校の敷地の土の中から、古代の鎌倉郡の役所倉庫の跡が発見されたので、基礎工事で深く掘る鉄筋の校舎は建てられないという事です。





レトロな雰囲気です。BANKとありました。













JR鎌倉駅から住宅地や海岸線を通って、江の島駅を経由して藤沢駅まで行く、通称「江ノ電」です。




向こうに海が見えて来ました。





稲村ケ崎の海です。

2010年11月19日金曜日

鎌倉文学館で川端康成と三島由紀夫の特別展

 鎌倉文学館で、川端康成と三島由紀夫の特別展を開催していて、写真や自筆原稿が展示されていた。
三島は川端の所へ書いた作品を持って行って、川端が雑誌に推薦して文壇デビューとなった。その前に確か志賀直哉の所に持って行って断られている。
志賀は、ごてごてした修飾の多い三島の文章を嫌ったという。それでか、川端へは違った作品を持って行ったようだ。

三島を一躍檜舞台へ登場させる切っ掛けになった作品は、「仮面の告白」であるが、この作品も、非常に分かり易い言葉で書かれている。

何しろ三島は文章が上手い。彼の「文章読本」も良かった。

しかし、気になった所があった。彼は法学部の出身だが、六法全書の中にある様な、法律の文章を擁護していた。
句点が少なく、読点ばかりを打って、長々と繋げて、修飾語がどこに掛かっているのかハッキリしない、意味不明な、どちらにも取れるような書き方をしてある文章なのか、実際に「文章読本」を書いた時期は相当前なので、三島が習ったころの法律文章がどうであったかは定かではないのだが。
















2010年11月18日木曜日

枯葉散り 深まる秋に 影ひとつ

今年の秋は、汗ばむ日があったり、急に寒くなってみたり、秋晴れの日が少なかったりで、晩秋を迎えてしまいました。


















2010年11月13日土曜日

比企一族の墓 ー 元八幡 ー 披露山公園



                                            
妙本寺にある比企一族の墓





ここは比企ヶ谷(やつ)と呼ばれ、鎌倉時代に比企氏の館があったと言われている。

比企氏の出は埼玉県の比企地方で、源頼朝やその子の頼家の乳母、つまり育ての親のような立場に付いたことから、その一族が政治の実権を握るようになった。

そのため、頼朝の妻で頼家の母親であった北条政子側の北条一族との対立が深まって行き、ついには、ここの館で北条氏に滅ぼされてしまった。







比企ヶ谷の鬱蒼とした樹木





        幼稚園の建物も独特です。
 
 
 
 
 
                     道路脇のお堂にあった五輪塔

 
 


                           
                       石清水の井

 
 
 
 横須賀線の線路を渡って、狭い路地を入って行くと、このような古びた石造りの井戸があった。
 近くには芥川龍之介が横須賀で英語の教師をしていた頃に住んでいた場所がある。
 彼の著作の中に次のように記されている。


 「彼等(芥川と新婚の妻)は平和に生活した。大きい芭蕉の葉が広がったかげに。 ― 彼らの家  は東京から汽車でもたっぷり一時間かかるある海岸の町にあったから。」


 ここでの生活は長くは続かず、一年あまりで彼が新聞社の作家になったために、東京の田端に引っ越す事になった。

 上の文章にもある様に、田端へ引っ越して伯母たちと一緒に暮らすようになって、平和な生活に波風が立つようになって来る。

 
 



 その細い路地の先に、今の鶴岡八幡宮が最初にあった場所とされる八幡宮の元宮(元八幡とも言う)がある。
 この地は頼朝が鎌倉に幕府を開く以前の古くから、源氏一族が所領としていた。




 
 
光明寺に隣接した江戸時代頃と思われる墓石群





                       鎌倉市街地方面を望む

 
 


                     披露山公園から見た逗子湾