【日和山幼稚園の悲劇】
石巻市に出かけました。日和山の幼稚園はすぐに見つかりました。あの日から閉まったままだそうです。大地震の後、園児を送迎バスに乗せて海岸沿いの低地にある親元へと帰している途中で津波に呑まれ、園児5人と職員1人が犠牲になってしまいました。津波がひいた後、バスは瓦礫の中に埋もれ、「助けて」と叫ぶ子供の声を聞く人もいたのですが、その後の周囲の火災に巻き込まれて亡くなったと言います。
幼稚園は高台にあり、園児の家の多くは海岸に近い低地にありました。この地域では高齢者は高台に住み、若い世帯は低地に多かったようです。チリ津波以降、高台に移った人が多かったのでしょうか。そしてその怖さを余り知らない若い人は低地に住んだのでしょうか。
園児を乗せたバスは津波に襲われる低地へと向かってしまいました。若い先生たちは津波の事は良く知らなかったのでしょう。他所から来た人も知らなかったのでしょう。チリ津波を知っていた高齢者は津波の事は知っていました。
そこには災害の伝承が断絶された現実がありました。余り恐怖を煽ると、低地には誰も住まなくなってしまいます。そうすると地域は高台の高齢者ばかりになってしまいますし、若い人がいなくなってしまいます。やむなく、次第に低地の危険は誰の口にも上らなくなり、忘れられて行きます。そのうちに低地に人が住み着くようになります。
パルプ工場の従業員も増え、産業も栄えて来ます。こうしてチリ津波は忘れられて行ったのかもしれません。
所が3.11の東日本大震災に見舞われ、低地にあった千数百世帯近くの住居はほとんど失われました。
日和山から復興事業が進む低地を眺めながら、そんな想像を思い巡らしていました。あくまでも単なる想像でした。
【大川小学校の悲劇】
なぜ地震から津波まで50分近くもあったのに生徒や教師は逃げようとしなかったのか。その謎に迫るために現地に赴きました。
裏山には倒木や土砂崩れの危険性があったといいますが、本当だったのでしょうか。検証してみようと思いました。
大川小学校では生徒74人、教師10人、スクールバス運転手1人が亡くなったり行方不明になりました。
写真の向こうが北上川の下流で海の方向ですが、川を遡って来た津波は学校より上流部で堤防を決壊させ、そこから大量の水が流れ込んで来たために、柱が海とは逆の方向へ倒れてしまっています。
被災以前には学校の周囲に集落が広がっていました。
裏山に逃げられなかったのだろうかと、山裾の道を歩いて見ました。
山へ登る小道がありましたが、立ち入り禁止の看板がありました。何人もの人がここを登ったのでこんな看板が立てられたのでしょう。
サクラを植えていた人に聞いたら、他にも楽に登れる道があると言うので行ってみると、10分強でため池までやって来ました。
ため池から見たところで、左の方に小さく見えるのが大川小学校です
津波はこのため池を越えて来たといいます。この地区では400人位の人が亡くなっていますが、助かった人は津波を見てから逃げたと話していました。ほとんどの人が津波が来るとは思っていなかったようです。
消防は津波が来るから海岸の方へ行く車などに注意を呼び掛けていたようでした。みんな津波が来るとは思っていたようですが、この地区は海岸から離れていて、まさか北上川を遡って大津波がやって来るとは想像していなかったと思われます。
学校では山に逃げようという意見も出たようですが、山崩れや木が倒れる危険があるとの意見も出て、それが取り入れられる事はありませんでした。
つまり、津波の危険とそれらの危険を天秤にかけたが、留まる方が安全と判断してしまったのでしょう。
ため池です
ため池の先はこんな風にな道になっています
ため池から数分歩くと上りの道になって、津波からは逃れられます。小学校からこの辺りまで15~20分あれば来られます。津波を見てからこの辺に逃げて助かった人もいるのだから、その前に逃げていたら小学校低学年の子供でも十分に助かったに違いありません。
石巻市に出かけました。日和山の幼稚園はすぐに見つかりました。あの日から閉まったままだそうです。大地震の後、園児を送迎バスに乗せて海岸沿いの低地にある親元へと帰している途中で津波に呑まれ、園児5人と職員1人が犠牲になってしまいました。津波がひいた後、バスは瓦礫の中に埋もれ、「助けて」と叫ぶ子供の声を聞く人もいたのですが、その後の周囲の火災に巻き込まれて亡くなったと言います。
幼稚園は高台にあり、園児の家の多くは海岸に近い低地にありました。この地域では高齢者は高台に住み、若い世帯は低地に多かったようです。チリ津波以降、高台に移った人が多かったのでしょうか。そしてその怖さを余り知らない若い人は低地に住んだのでしょうか。
園児を乗せたバスは津波に襲われる低地へと向かってしまいました。若い先生たちは津波の事は良く知らなかったのでしょう。他所から来た人も知らなかったのでしょう。チリ津波を知っていた高齢者は津波の事は知っていました。
そこには災害の伝承が断絶された現実がありました。余り恐怖を煽ると、低地には誰も住まなくなってしまいます。そうすると地域は高台の高齢者ばかりになってしまいますし、若い人がいなくなってしまいます。やむなく、次第に低地の危険は誰の口にも上らなくなり、忘れられて行きます。そのうちに低地に人が住み着くようになります。
パルプ工場の従業員も増え、産業も栄えて来ます。こうしてチリ津波は忘れられて行ったのかもしれません。
所が3.11の東日本大震災に見舞われ、低地にあった千数百世帯近くの住居はほとんど失われました。
日和山から復興事業が進む低地を眺めながら、そんな想像を思い巡らしていました。あくまでも単なる想像でした。
日和山にはチリ地震の津波碑がありました
奥の細道で松尾芭蕉もここを訪れました
日和山に近い平地には集合住宅が建設中でした。この位の高さがあれば、津波が来ても上に逃げれば助かります。
工場らしき建物は見えますが、ここからは建設中の集合住宅以外は1件も見えませんでした。
こちらは旧北上川の上流方向を眺めた写真で、中州が見えています。
低地部は家が流されてしまって、そのままになっている場所が多いです。
【大川小学校の悲劇】
なぜ地震から津波まで50分近くもあったのに生徒や教師は逃げようとしなかったのか。その謎に迫るために現地に赴きました。
裏山には倒木や土砂崩れの危険性があったといいますが、本当だったのでしょうか。検証してみようと思いました。
大川小学校では生徒74人、教師10人、スクールバス運転手1人が亡くなったり行方不明になりました。
二階の天井近くまで壊れているので、そこまで津波がやって来たことが分かりました。この校舎には屋上がないので、屋上に逃げることは出来ません。
写真の向こうが北上川の下流で海の方向ですが、川を遡って来た津波は学校より上流部で堤防を決壊させ、そこから大量の水が流れ込んで来たために、柱が海とは逆の方向へ倒れてしまっています。
被災以前には学校の周囲に集落が広がっていました。
裏山に逃げられなかったのだろうかと、山裾の道を歩いて見ました。
山へ登る小道がありましたが、立ち入り禁止の看板がありました。何人もの人がここを登ったのでこんな看板が立てられたのでしょう。
サクラを植えていた人に聞いたら、他にも楽に登れる道があると言うので行ってみると、10分強でため池までやって来ました。
ため池から見たところで、左の方に小さく見えるのが大川小学校です
津波はこのため池を越えて来たといいます。この地区では400人位の人が亡くなっていますが、助かった人は津波を見てから逃げたと話していました。ほとんどの人が津波が来るとは思っていなかったようです。
消防は津波が来るから海岸の方へ行く車などに注意を呼び掛けていたようでした。みんな津波が来るとは思っていたようですが、この地区は海岸から離れていて、まさか北上川を遡って大津波がやって来るとは想像していなかったと思われます。
学校では山に逃げようという意見も出たようですが、山崩れや木が倒れる危険があるとの意見も出て、それが取り入れられる事はありませんでした。
つまり、津波の危険とそれらの危険を天秤にかけたが、留まる方が安全と判断してしまったのでしょう。
ため池です
ため池の先はこんな風にな道になっています
ため池から数分歩くと上りの道になって、津波からは逃れられます。小学校からこの辺りまで15~20分あれば来られます。津波を見てからこの辺に逃げて助かった人もいるのだから、その前に逃げていたら小学校低学年の子供でも十分に助かったに違いありません。