東京と、その周辺の県を訪れて、ランダムに記事にしていったブログです。東日本大震災以降、建物の耐震化の面からも建設需要が高まっているので、最近はその取材が多くなっています。 その他に政治・経済・教育などのミニ論評も挟んであります。
2012年8月25日土曜日
2012年8月16日木曜日
伝馬町牢屋敷跡から江戸時代の水道網が出土
東京都中央区日本橋小伝馬町で、江戸時代にあった伝馬町牢屋敷の跡を発掘調査していて、その見学会があったので行って来た。
調査地は回りを鉄の板でぐるりと覆っていて、当時(18世紀頃)の地面は現在よりも3メートル以上は低かった。だいぶ埋め立てられているのが見て取れる。
木製の細長いのが江戸時代の上水道だ。神田川の上流から神田上水として水を取り、JR水道橋付近で神田川に橋を掛けて上水道を渡し、日本橋方面へと水道管は張り巡らされていた。
上の写真の四角いのは枡で、左下の方から流れて来た水が枡で二分割されているように見える。
右下の丸い穴は井戸で、井戸から飲めるような水が出て来れば、上水を引く必要はない訳で、たぶん海に近い事から海水混じりの水だったので、飲み水以外の使われ方がされたのだろうと推測される。
牢屋の建物に使われていた石垣で、どの位の高さまで積み上げられていたのか分からないが、それ程大きくはないので頑丈な建物の土台として使われていたのだろう。
遺跡地は、大正12年(1923)の関東大震災を経て、写真のような震災復興小学校(十思小学校)が出来た。
発掘現場はこの建物の奥になる。
■ 見学会の資料から
遺跡は隅田川の西方約900m、神田川の南方約550mに位置する。この地は江戸前島(まえじま)と呼ばれる半島状の砂洲の東側の一角にあたり、中世末までは海沿いの土地ないし沼沢地であった。
天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康が入府してから開発が盛んになり、遺跡地も土が盛られ造成されていった。
牢屋敷は、家康入府当初の天正18、19年頃は常盤橋門外、今の日本銀行辺りに置かれていた。
伝馬町に移転したのは慶長18年(1618)頃からと言われている。
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